004 エルフの薬屋と、焼きたてバタークロワッサン


 ──ふわりと、甘く香ばしい匂いがした。


 鼻先をくすぐる薬草の匂いと、そして何よりもどこか懐かしいパンの香り。


「……パン……?」


 かすれた声とともにゆっくりとまぶたを開く。


 見上げる天井は、古びた木造のくすんだ梁。寝ているのは柔らかなベッドの上で、毛布の手触りがひどく優しい。


(ここ……森じゃない……助けられたのか……?)


 呼吸をひとつすると、胸の奥まで空気がすっと通る。疲労感が抜け、体に絡んでいた重さが嘘みたいに軽い。


 部屋の隅には乾燥中の薬草が吊るされ、風が運ぶ香りが穏やかに混ざり合っていた。


 視線を巡らせていると、階下からトントンと軽やかな足音が響いてきた。


 緑色の長髪で、スラリとした長身の男が部屋に顔をのぞかせる。何より印象的なのは、彼の長い耳だ。多分……エルフ、なのかな?


「ああ、お前さん……ようやく目覚ましたのか……良かった」


 その声には、どこか聞き覚えがあった。


 最後に意識が遠のく中で聞いた、あの穏やかな声だ。


「……あなたが……助けてくれた人ですか……?」


「うむ。森から大きな音が聞こえてのう。薬草採りの途中で、倒れておるお前さんを見つけたんじゃ。草をぎゅっと握りしめておってな……寝言で『パン……焼きたての……』と呟いておったぞ」


(おお、言葉が通じて良かった……それより、パンの寝言は少し恥ずかしいな)


 手元を見ると、確かにまだ発酵草を握り締めていた。

 

 それを見て、優しそうな男性は目尻を下げて笑う。


「こりゃあただ事じゃないと思うてな。村のパン屋で焼き上がったばかりのバタークロワッサンを、妻のミーナに取ってきてもらったんじゃ」


(……見た目が若々しいから、口調に違和感があるんだが……まあいいか。それより、パン屋……! バタークロワッサン……!)


 そこへタイミングを見計らったようにもう一人、女性が姿を表した。彼女もまたスラリとした肢体に柔らかな微笑みをたたえている。小麦色の長い髪が美しく耳が長い──うん、おそらくエルフだろう。


 ファンタジー世界にやってきた実感が湧いてきた。


「目を覚ましたのね、良かった。ほら、お粥とバタークロワッサン、持ってきたわよ、猫ちゃん」


「……ありがとうございます。あの、お名前を聞いても?」


「私はミーナ。この人が、うちの旦那のガランよ」


「わしら、この村で薬屋をやっとるんじゃ。お前さん、名前はなんて言うんじゃ?」


「ユウマ……です」


「ユウマちゃん、ね。ふふ、かわいい名前」


「まずは腹に物を入れんと話もできん。ささ、冷めんうちに食べなさい」


 ガランに促され、俺は真っ先に、木のトレイの上に置かれたバタークロワッサンに手を伸ばす。


 指で押すと、パリパリと繊細な音を立てて表面が崩れ、ふわりと沈み、またすぐに優しく戻る。焼き上がった表面は、きつね色に輝き、層の美しさが際立っていた。


 ちぎった瞬間、熱い湯気とともに、芳醇なバターと麦の香りが脳髄を直接揺さぶるかのように、鼻腔を、そして意識全体を支配する。

 

 ──ひと口。


 サクサク、ふわふわ、そしてしっとりもっちりとした生地が、噛むたびにバターのコクと小麦の甘みをじゅわっと滲ませる。


 素朴でありながら奥行きのある味わいに、心の奥までじんわりと温かくなっていく。


 ……ああ、これは……



 ──脳内のパンを称賛する回路が、音を立てて全開になった。








「これ……これさぁ……はぁあ?」


 ──瞬間、世界が止まった。


「ちょっと待って、このバタークロワッサン、マジで反則じゃないか?」


 俺は思わずベッドで立ち上がっていた。


「サクフワすぎて、口の中で……え、もういなくなった? いやいる。いるぞ、今もまだ、パンの精霊が俺の舌に宿ってる!! 何層折り重ねたらこんな奇跡が……!」


 鼻息荒く手を上に掲げる。ガランとミーナが目を丸くしている。


「ありがとうガランさん! ありがとうミーナさん! ありがとうパン屋さん! ありがとうバター! ついでに近所に住んでた黒柴のおはぎ君もありがとう! お前たちが……お前たちが世界を回してるんだよ!」


 深呼吸。いや、できない。興奮で息が上がってる。


「この軽さ、なのにしっかり噛みごたえ、なのに消える……口の中から一瞬で消える!? この香り、この風味、焼き加減、きつね色の焼き目……」


 俺は天を仰いだ。木の天井しか見えないが、関係ない。


「ははっ……罪だよこれ……神への冒涜だ……ッ! 俺の魂が……パンの神に吸い寄せられていくぅぅぅ!!」


 ベッドからずるりと転げ落ちそうになる。


「はあっ!? クロワッサン……俺、前世で何回食べた? たった数十回だと? バカじゃねぇのか! 毎日食えよ!! 三食バタークロワッサンでもバチ当たらねぇ!」


 我に返る。いや、戻ってない。そこパンにいる。


「それぐらいの完成度がここにあるのに、俺は今まで何やってた!? 仕事? 過労? ちげぇよ、人生とはパンだよ! バタークロワッサンだよ!! 思考! 試行! 志向! 嗜好! 至高!」


 言葉が勝手に韻を踏み始め、俺はベッドの上でぴょんぴょんはね飛んだ。








 ──気付けば俺は無意識の内に、訳のわからないパン賛美を止められなくなっていた。止める必要もない。パンが、そうしろと命じている。

 

 それと同じくして、脳内でけたたましい通知音が鳴り響いた。




経験値獲得!

・パン賛美D 450EXP


レベルアップ!

・LV1→4(100/160)


パン

・バタークロワッサン(D)

何層にも折り重ねられた生地が特徴の、豊かなバターの香りとサクサクとした食感が魅力のパン。焼きたては特に格別で、至福の味わい。




「……………は?」


 俺は固まった。


「パンの食レポで……経験値……?」


 もう一度、表示を確認する。間違いない。450EXP。レベルが3も上がってる。


「ブレッドバット1体が10だから……よっ……45倍!?」


 声が裏返った。


「いや待て待て待て! 魔物倒すより、パン食った方が強くなれるってこと!?」


 これは……この世界、何かがおかしい。


 いや、おかしいのか? 世界の名前『パンタニア』だし。魔物もパンみたいな見た目だったし。


 エルフ夫婦は、俺の豹変ぶりにぽかんと口を開けている。


「こりゃあ……相当なパン好きじゃな……」


 ガランの声には、驚きと感嘆が入り混じっていた。


「うふふ、パンを食べて感激で泣いてしまう子、初めて見たわ」


 ミーナは、そう言って優しく微笑んだ。


 ――あ。


 その瞬間、頬に、冷たいものが流れているのが分かった。


「……なんで、俺……泣いてるんだ……?」


 自分でも、理由は、うまく言葉にできなかった。


 ただ──


 前世で、パンを食べる時間すら惜しんで働いていたこと。


 大学時代、パン屋巡りに夢中だったあの頃。


 そして今、異世界で初めて会ったエルフの夫婦が倒れていた俺を助けて、温かいパンを用意してくれたこと。


 それらが全て、このバタークロワッサンの温かさと重なって──心の奥底で、何かが堰を切って溢れ出したのだ。


「ユウマちゃん、よしよし……泣かなくていいのよ」


「よう頑張ったのう」


 気づけば二人が、俺の頭を優しく撫でてくれていた。二人の長くて繊細な指先が、モフモフの耳と頭をふわふわと撫で回す。


「ぐすっ……ふぁっ……あ、そこ……くすぐったい……」


「おお、これは…ずっと撫でておきたい毛並みじゃ」


「ふふふ、クセになっちゃいそうね」


(あれ……? なんだこの状況……)


 パンとお粥を食べ終えるころには、二人は完全に俺のモフモフの魅力に取り憑かれていた。してやったりだ。うんうん。


 でも、不思議と嫌じゃない。

 

 むしろ、あったかくて、心が緩む。


(あれ……?)


 ふと、視界の端に表示が浮かんだ。




経験値獲得!

・ガランとの出会い 30EXP

・ミーナとの出会い 30EXP


レベルアップ!

・LV4→5(0/180)




(……人との出会いでも経験値がもらえるのか?)


 新しい発見に、少し驚く。


(この世界、本当にゲームみたいだな……)


 ──俺の転生初日は最高のスタートになった……と思う。


 バタークロワッサンの美味しさに蹂躙されながらも、エルフ夫婦の優しさに包まれ少しだけ泣いちゃったけど……ね。

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