第三章:信長包囲網と天運の行方
第14話 長篠の戦い
元亀四年(1573年)、甲斐の虎・武田信玄が病没した。
その報は、信長包囲網に苦しむ織田家にとって一条の光であったが、安息の時は長くは続かない。
信玄の子、武田勝頼は、父をも凌ぐとさえ言われる猛将。
彼は父の遺志を継ぎ、その矛先を再び織田、そして徳川へと向けた。
長篠城を巡る攻防をきっかけに、ついに両軍は
「……赤備えを筆頭とする武田の騎馬隊は、まこと天下無双。
正面からぶつかっては、いかな織田の兵とて勝ち目はない」
決戦前夜の軍議は、重苦しい沈黙に支配されていた。
敵は、戦国最強と謳われる武田騎馬隊。
その名は、歴戦の織田家臣たちでさえも恐怖させるに十分な響きを持っていた。
その沈黙を破ったのは、竹中半兵衛の静かな声だった。
「ならば、馬の足を止め、その上で、近づくことすら叶わぬ遠間より叩くほかありませぬ」
半兵衛は広げられた地図を指し示し、彼の練り上げた策を披露し始めた。
それは、常識を覆す革新的な戦術だった。
まず、敵の騎馬隊の突撃路を限定させ、その進路上に三重の
そして、その柵の後ろに、織田家が誇る三千丁の鉄砲隊を配置。
兵を三隊に分け、第一隊が撃ち終えれば、第二隊が前に出て撃つ。
その間に第一隊は弾を込め、第三隊の射撃が終わる頃には、再び射撃準備が整う。
── 後に「鉄砲三段撃ち」と呼ばれる、途切れることのない弾幕で、最強の騎馬隊を殲滅する ──
その完璧で、あまりにも大胆な策に、将たちは息を飲んだ。
「……面白い。それでこそ我が軍師よ」
信長様は、満足げに頷いた。
策は、決まった。
その軍議の後、俺、呉学人は、半兵衛から直々に呼び出された。
てっきり、また何か粗相をしでかす前に釘を刺されるのかと身を縮めていると、彼は一枚の図面を俺の前に差し出した。
「呉学人殿。貴殿には、この馬防柵の設置場所の最終的な策定と、その監督をお任せしたい」
「はっ……?わ、私にでございますか?」
聞き間違いかと思った。このような重要な役目を、なぜ俺に……
「貴殿の持つ『天運』。それを、この策に組み込みたいのです。人の知恵と天の運気が合わされば、この戦、必ずや勝利できましょう」
半兵衛は、真剣な目でそう言った。
彼の俺に対する評価が、とんでもない方向へ歪んでいることは知っていたが、ここまでとは。
もはや、彼は俺を人ではなく、何か超常的な現象を呼び起こす装置か何かのように見ているらしかった。
しかし、断ることはできない。
そして、俺の心には、かすかな希望が芽生えていた。
(そうだ、これは天運などではない。ただ、図面に書かれた通りに、地形を読み、柵を設置するだけの仕事だ。これならば、俺のうっかりが出る幕はないはずだ!)
俺は、今度こそ完璧に役目を果たそうと、固く決意した。
翌日、俺は設楽原の丘陵に立ち、職人たちに指示を飛ばしていた。
半兵衛の基本設計図は完璧だ。
俺の役目は、当日の風向きを読み、鉄砲の煙が自軍の視界を塞がぬよう、微調整を加えることだった。
「……よし。今日の風は西から東へ穏やかに吹いている。これならば、煙は敵の方向へ流れるはず」
俺は、湿らせた指を天に掲げ、風の流れを慎重に読んだ。そして、自信を持って柵の最終的な設置場所を決定し、指示書に力強く墨書きした。
我ながら完璧な仕事だった。
ようやく「誤先生」の汚名を返上できる。俺は、満足感に浸っていた。
そして、運命の決戦当日。
夜明けと共に布陣を完了した織田・徳川連合軍の前に、武田軍がその姿を現した。
朝靄の中から浮かび上がる、真紅の軍団「赤備え」。その威圧感は、大地を震わせるかのようだった。
両軍が対峙し、空気が張り詰める。
俺は、自らが配置を決めた馬防柵の後ろで、固唾を飲んで戦の始まりを見守っていた。
その時、ふわり、と頬に風が当たった。
ん? と思い、俺は織田軍の
織田
そのはためく方向は……昨日とは、真逆だった。
昨日まで西から東へ吹いていた風が、今は東から西へ……つまり、敵陣から、こちら側へと吹いていたのだ。
血の気が、さあっと引いていくのを、俺は感じた。
(風向きが……逆……!? )
俺は、恐る恐る、鉄砲隊が構える方向を見た。
この風向きで鉄砲を撃てば、発射の際に立ち昇る黒い煙は、どうなる?
……全て、自軍の方向へと逆流し、射手たちの視界を、完全に覆い隠してしまう。
三段撃ちどころか、二の矢、三の矢を放つことすら不可能になる。
それは、半兵衛が築き上げた完璧な策が、根底から崩壊することを意味していた。
ドドン、と武田軍の陣太鼓が鳴り響いた。
鬨の声と共に、最強の騎馬隊が、地響きを立てて突撃を開始する。
俺は、その悪夢のような光景を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「こ、これでは視界が……ああ……」
声にならない声が、喉の奥から絞り出された。
「ああ、私はなんという失策(ミス)を~~~~~っ!」
俺の絶叫は、数万の軍勢が上げる鬨の声と、数千の馬蹄が立てる轟音の中に、虚しくかき消されていった。
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