第12話 半兵衛の分析


 ​ 姉川での大勝に、織田の陣中は沸き立っていた。


 将兵たちは夜通し酒を酌み交わし、自らの武功を誇り、勝利の美酒に酔いしれている。

 ​ その喧騒を遠くに聞きながら、竹中半兵衛は、自室でただ一人、静かに座していた。


 彼の前には、ろうそくの揺らめく灯りに照らされた、一枚の白紙の巻物が広げられている。


 ​ 半兵衛は、墨を含ませた筆を手に取ると、しばし瞑目し、やがて、滑るような筆致で文字を書きつけ始めた。


『稲生の戦い』


『上洛戦・渡河』


『金ヶ崎の退き口』


『姉川の戦い』


 ​ それは、ここ数年で織田家が経験した、主要な合戦の名。

 そして、その全てに、あの男……呉学人が、奇妙な形で関与していた戦だった。


 ​ 半兵衛は、それぞれの戦の名の下に、呉学人が取った「行動」と、それがもたらした「結果」を、淡々と書き連ねていく。


 ​ 稲生……行動:地図の誤読。 結果:敵予備兵力の側面を突き、本陣を動揺させ勝利。


 渡河……行動:不確かな記憶による誤進言。結果:山崩れによる渡河点の出現と、奇襲の成功。


 金ヶ崎……行動:地図の汚損による道迷い。結果:敵主力との遭遇回避、および敵補給部隊の撃破。


 姉川……行動:伝令の言葉の誤解。結果:絶好機での総攻撃敢行、および圧勝。


 ​ 書き終えた半兵衛は、筆を置くと、腕を組んでその異様な記録をじっと見つめた。


(……奇怪だ)


 彼の知性が、そう結論付けていた。


 一つ一つの事象は、単なる偶然、あるいは幸運として片付けられるかもしれない。

 だが、これほどまでに、人の生死と国家の命運を左右する「幸運」が、一人の男の「失敗」を起点として、繰り返し起こるものだろうか。


(一見、これらは全て無関係な偶然に見える。

 だが、全ての成功には法則性があるはずだ。

 偶然が必然に変わるには、それを手繰り寄せる何者かの「意志」が介在せねばならぬ)


 ​ 半兵衛の思考が、深く、静かに潜っていく。


(彼は一体、何を読んでいるのだ?)


 ​ 半兵衛は、呉学人の行動原理を、自らの得意とする兵法や論理の物差しで測ろうと試みた。


 ​ 人の心か?


 確かに、彼の行動は結果的に、敵将の油断や味方の士気といった、人の心の「虚」を突いている。 だが、それだけでは、山崩れという天災は説明できない。


 ​ では、天の時、地の利か?


 易学や天文学に精通し、天候や地形の変化を予知しているとでも言うのか。

 それならば渡河の奇跡は説明できよう。

 だが、稲生での地図の誤読や、姉川での聞き間違いという、あまりにも人間的な「失敗」はどうだ。

 天を読む者が、そのような初歩的な過ちを犯すだろうか。


 ​ 論理で追えば追うほど、分析すればするほど、呉学人という存在は、その論理の網の目をすり抜けていく。


 まるで、形のない霞を掴もうとしているかのようだ。


 ​ 半兵衛の額に、じわりと汗が滲んだ。


(違う……。測ろうとすること自体が、間違いなのかもしれぬ)


 彼は、ある結論に達しつつあった。

 

 呉学人は、人の心や天の時といった、個別の事象を読んでいるのではない。


(彼は、それら全てを結びつけ、動かしている、さらに上位の何か……我らには見えぬ『ことわり』そのものを見通しているのではないか?)


 ​ 天命


 あるいは、運命の潮流。


 ​ 常人には決して見えぬその流れを読み、自らの「うっかり」という小石を投じることで、その流れを味方にとって最も都合の良い方向へと捻じ曲げてしまう。


 ​ もし、そうだとしたら。


(……もはや、それは軍師ではない。人の領域を超えている)


 ​ 半兵衛は、巻物の上に書かれた「呉学人」という三文字を、畏怖の念を込めて見つめた。


 それはもはや、同僚の名ではなく、人知を超えた何かを象徴する記号のように見えた。


 ​ 彼の緻密な知性と完璧な論理は、呉学人という絶対的な「不条理」を前にして、初めて深い迷宮へと迷い込んでいた。


 ​ ろうそくの炎が、ふっと風に揺れた。


 それはまるで、半兵衛の揺れ動く心の内のようであった。


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