第3話 仕官と初陣


 ​墨俣川を挟み、兄と弟が陣を構えた。


 織田信長と、その実弟である織田信勝。

 骨肉の争いである稲生の戦いの火蓋が、今まさに切られようとしていた。

 ​そして俺、呉学人は、生まれて初めて戦装束というものを身に着けていた。


「……重い」


 ​慣れぬ胴丸は鉛のように肩にのしかかり、動くたびにカチャカチャと頼りない音を立てる。

 百姓仕事で鍛えた体幹には自信があったが、それはあくまで鍬を振るうためのもので、武具の重みに耐えるためのものではない。

 利家から借り受けた古い脇差は、腰で不格好に揺れていた。


​「学人、顔色が悪いぞ。腹でも下したか?」


 隣で愛用の十文字槍を手入れしていた利家が、心配そうに声をかけてくる。

 彼の身に着けた赤母衣あかほろは、戦場のどこにいても映えるであろう鮮やかさだ。


「いや……ただ、少し、雰囲気に呑まれてしまって」


「はっはっは!初陣なら誰でもそんなものだ!安心しろ、俺がお前を守ってやる!」


 ​屈託なく笑う利家が、今はひどく眩しく見えた。

 守ってもらう軍師がどこにいる。

 本来なら俺が彼を、そして織田軍を勝利に導かねばならない立場なのだ。

 それなのに、俺の膝は、主の許可なく笑い続けている。


 ​(落ち着け、俺。思い出せ、呉用の記憶を。数万の軍勢を動かしたあの経験を……)


 ​頭の中で自分に言い聞かせるが、梁山泊での軍議の記憶は、目の前の生々しい鉄の匂いとときの声にかき消され、霞のように朧げだった。


 物語の中の戦と現実の戦は、まるで違う。


 ​やがて、信長様の本陣である那古野城の大広間に、主だった将たちが集められた。

 評定、いわゆる軍議である。


 ​広間には、信長様に付き従う武将たちが顔を揃えていた。


 織田家譜代の佐久間信盛殿、勇猛で知られる森可成もり よしなり殿。そして、筆頭家老でありながら、その腹の内が読めぬ林秀貞殿もいる。 彼らが発する気迫は、まるで刃のように肌を刺す。


 ​百姓上がりの俺は、その末席に、まるで借りてきた猫のように座っているのが精一杯だった。


「……申し上げます。敵方の兵力はおよそ千七百。対する我らは七百。

 かの柴田権六勝家殿や林美作守(秀貞の弟)殿が向こうについたのが大きく、兵力では圧倒的に不利にございます」


 佐久間信盛殿が、苦々しい表情で報告する。


「何を弱気な!柴田権六が相手だろうと、この森三左衛門可成の槍が錆びつくことはないわ!」


 森可成殿が、その言葉を力強く遮った。


 ​議論は白熱する。

 敵の中心は、織田家随一の猛将と謳われた柴田勝家。

 その堅実な采配をどう崩すのか。

 将たちの怒号にも似た声が飛び交う中、俺はただ、その迫力に圧倒され、存在感を消すことだけに集中していた。


 ​(頼むから、俺に話が振られませんように……!)


 ​神仏に祈るような気持ちで俯いていた、まさにその時だった。


​「……学人」


 ​凛と響く声に、俺の心臓は喉から飛び出しそうになった……信長様だ。


 全ての視線が、一斉に俺に突き刺さる。


​「貴様は、どう見る」


 ​広間が、しん、と静まり返った。


 歴戦の将たちを差し置いて、信長様は元百姓の若造に意見を求めたのだ。

 それは、信長様の俺に対する信頼の証であると同時に、他の家臣たちにとっては面白くない状況だろう。

 侮蔑と好奇の入り混じった視線が、俺をさらに萎縮させる。


​「は、はい……!」


 ​震える声で返事をし、俺は信長様の前に這い出た。

 側近の者から、敵の布陣が描かれた一枚の絵図を手渡される。和紙のざらりとした感触が、汗ばんだ手に不気味に張り付いた。


 ​(やるしかない……!呉用の知識を総動員するんだ!)


 ​俺は絵図を広げ、食い入るように見つめた。

 敵軍の中核を担うは柴田勝家。

 その用兵は「掛かれ柴田」の異名とは裏腹に、極めて堅実で隙がないと聞く。

 だが、どんな陣にも必ず狙うべき一点、すなわち「虚」が存在するはずだ。


 ​(敵の兵力は我らより上。ならば、短期決戦に持ち込みたいはず。

 そのためには、こちらの主力を誘い込み、包囲殲滅するのが常道。

 だとすれば、一見手薄に見える場所にこそ、精鋭が伏せられている可能性が……)


 ​ 思考が、回り始める。

 緊張で霞んでいた呉用の記憶が、少しずつ輪郭を取り戻していく。

 そうだ、この感覚だ。盤面を支配する、この全能感。


​「……申し上げます」


 ​俺は顔を上げ、覚悟を決めて口を開いた。


 しかし、その時、俺は気づいていなかった。

 極度の緊張と焦りから、絵図を広げた際に、その上下を逆さまにしてしまっていたことに。


 ​俺は、自信に満ちた声で、天地がひっくり返った絵図の一点を、指で力強く示した。


​「敵の布陣、一見するとこの西側に主力が集まっているように見えます。しかし、これは見せかけにございます!」


 ​広間に、わずかな、しかし確かな、どよめきが走った。


 当然だ。


 俺が「手薄に見える」と言った場所は、絵図の上ではどう見ても柴田勝家の本隊が配置されている、最も警戒すべき場所なのだから。


 ​しかし、パニックに陥った俺の思考は、もはや誰にも止められない。


「柴田殿ほどの将が、これほど分かりやすい布陣を敷くはずがありませぬ!

 敵の本当の狙いは、我らをこの西側に引きつけ、その隙に、手薄に見せかけているこちらの東側から本陣を強襲することにあり!

 ご覧ください、この東側の布陣の薄さ!

 あまりに不自然!

 これは我らを誘い込む、巧妙極まりない罠にございます!」


 ​俺は、本来なら敵の側面にあたる、何でもない平地を指さしながら、叫んでいた。


「敵の精鋭部隊は、この手薄に見える東側にこそ潜んでおります!断言いたします!」


 ​言い切った瞬間、俺は自分の言ってしまったことの重大さに、ようやく気づいた。

 広間は、静寂を通り越して、冷え切った空気に包まれている。


「権六殿の陣が、そのような奇策を弄するものか」


「百姓上がりが何を言うか」という囁きが聞こえる。


 森可成殿は、呆れたように俺を一瞥している。


「……学人」


 利家が、心配そうな顔で俺を見ている。


 ​(ああ、終わった……。俺は、なんという、なんという大失態を……!)


 ​血の気が、さあっと引いていく。


 もはやこれまでか。

 百姓に戻るどころか、敵前で軍の士気を乱したとして、手討ちにされても文句は言えまい。


 ​俺が自らの運命を諦めかけた、その時だった。


 玉座に座る信長様が、それまで閉じていた目を見開き俺をじっと見つめて、こう言ったのだ。


「……面白い」


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