第四章
王太子と王女
執務室の丸ガラス窓は薄曇りの光を受けて、白く鈍っていた。
壁に掛かる地図の上を春先の埃が漂い、卓上の封蝋はまだ柔らかい。
「……流石に驚きましたよ。ノアなんて、呆れて頭を抱えていました」
軽口で報告を締めると、レオトバイ兄は口元だけで笑った。今は、武人の仮面を外し家族の仮面を纏っている。
「では、侍従の手配は不要となったな。隣室の小間はその奴隷に使わせてやれ。……しかし、サモンドが奴隷を抱えるとは、なんとも皮肉なものを感じる」
「どういう意味ですか? それと、その呼び方はやめてください」
おお、こわい――と兄は肩をすくめて見せ、さらに表情を緩める。つまり、ここからが本題ということだ。
「……まあ、イノセントローズは問題なく稼働。本人も順調に力を付けている。引き続き頼むぞ。それはそうと……」
言葉に合わせ、今度は眉がわずかに引き締まる。
「先日の攻勢で失われた物資の補填はせねばならん。が、満額の補給は今すぐには難しい。前線を宥めるためにも、お前とセトに動いてもらえないだろうか」
「私に……前線へ、ですか」
「トラキス公に言わせておくわけにはいかん。むしろ対抗として、王族が顔を出すべきだ。……それに、セトが戦場を知るには良い頃合いだろう」
それは分かる、とルナは内心で頷く。東方の戦地で王族が存在感を示すのは重要だ。
だが、その分かるが、喉に刺さった小骨のように引っかかった。
「私には王都での使命がございます。施療院……そして救貧の事業は始まったばかりです」
兄は短く息を吐いた。
「……その件についてもだ。予算が苦しいのは知っているだろう」
「苦しむ者の救済より軍備を優先するなど、正気の沙汰ではございません」
即答に、王太子の瞼が一瞬だけ揺れた。すぐに平板な声で話し出す。
「全面的に取りやめと言っているわけではない。今はまだ小さな話だが、額とやり方をだな」
「父上の裁可をいただいている事業です」
沈黙。地図の上を埃がゆっくり巡る音まで聞こえそうだった。
「……そうだな。わかった」
そこで話は打ち切られた。形式上は。
(兄上は立派だ。次代の王として異存はない。……けれど、父上に比べると臆病だ。正義を行うのに、ためらいがある)
レオトバイが次の書状へ手を伸ばすのを見て、ルナは一礼した。踵を返す。扉を閉める寸前、兄の横顔が一瞬だけ翳った気がした。
(トラキス公などに、惑わされませんように)
薄い雲が流れ、祈りの丘の鐘が正午を告げる。
石畳に出たルナは短く息を吸い、歩を速めた。施療院へ向かう前に、伝えるべきことがいくつかある。セト、そして――ノアにも。
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