第二章

王都1

途中、数度の休憩と一晩の野営を挟んだ。塩辛いだけの干し肉と黒パン――どちらもえらく固い――しか口にしていない。


森を抜けた。瞬間、まず鼻をついたのは獣臭と腐敗臭が混ざったような空気だった。

開けた視界の先には灰色の城壁が立ち上がっている。それほど高くはない。近くにいる人間と比べるに、高さは五メートルほど。

映画や漫画だと、十や二十メートルはあるイメージなんだけどな。


「セト、あれが、私たちの、王都です」


指を差しながら、ゆっくりと単語で切るようルナが話しかけてくる。

道中でずいぶん俺と話したため、外国人相手のコミュニケーションも板に付いてきた。


「すごい、大きいね」


口をついて出たのは、実感の伴わない相槌だった。

だが近付くにつれ、壁は人の三倍の高さで迫り、やがて威圧感を帯びてくる。実際に戦争で使うなら、これくらいで充分なのだろう。


城門の前には長蛇の列。荷馬車、旅人、農夫……老若男女が並び、兵が通行証を確認している。行列の端では子供がぐずり泣き、母親が必死にあやしていた。その横を、俺たちの馬車はすいすいと進んでいく。


列に並ぶ民衆の視線が、こちらに集まる。ルナが王女と分かるからだろうか。それとも、赤茶の血染みに穴だらけの服を着た俺を見ているのか。

ざわめきが広がる。羨望と不安と好奇が入り混じった視線。

こっちの連中はマナーがいいな。不躾にスマホを向けてくる奴が一人もいない。


ノアは馬車を降りることなく、紋章の刻まれた札を掲げる。短いやり取りを終えると、衛兵たちは頭を垂れ、道を開けた。

俺たちは行列を飛ばして城門をくぐる。王族って、便利だな。


背後から、列に並んでいた商人や旅人たちのざわめきが追いかけてくる。

俺を指差してなにか言っている子供が母親に窘められる。居心地は悪いが、誰も咎めない。王族って、ほんと便利だな。


城壁を抜けると、匂いが強くなった。

そこには広場、そして石畳の大通りがまっすぐに延びていた。おそらくメインストリートなのだろう。

建ち並ぶ建物は木と石の混合造り。二階建てが多いが、三階建てもちらほら。


軒を連ねる露店。果物屋、服屋、薬草か何かを抱えた行商の姿。活気はある。

焼けたパンや香辛料の香りが鼻腔をくすぐる。だが同時に、獣臭と腐敗臭が混じって押し寄せてきた。甘い匂いと腐った匂いが、同じ通りで同居している。


地面を見下ろすと、残飯や家畜の糞尿が散乱している。――家畜の、だよな?

馬車から見る街並みは美しい。切り取ってレストランかホテルのロビーにでも飾りたいほどだ。ただし、カメラマンは絶対にローアングルから撮影してはいけない。


焼き菓子や串肉を売る露店の前を馬車が通り過ぎ、香ばしい煙が鼻を直撃する。俺の腹がぐうと鳴る。

こんな街の、しかも露店。衛生管理には不安しかない。俺はこっちの健康保険証なんて持っていないんだぞ。


馬車は石畳の大通りを進んでいく。

左右には露店や行商がまだ続く。子どもたちの声や商人の掛け声が混ざりあい、雑踏は熱気に包まれていた。


やがて、通りの一角に人だかりができているのが見えた。

白い法衣を着た男女が数人、木製の台の上に立ち、楽器を鳴らしながら、通行人に向かって声を張り上げている。

聖歌のようでもあり、説法のようでもある調子。鈴や笛の音は妙に整っていて、行き交う雑踏よりも耳に残る。まるで、人の意識を捕まえるように。


「シリス教聖音派です」


ルナが教えてくれる。彼女の声には安心感すら滲んでいた。

王都への道中でも少し説明があったな。

神は声とともにある。祈りは音となり、音は神に届く――。

どうやらそんな教えらしい。


王都の大通りで布教できるくらいだし、姫様も信じてる。国教のようなものか。下手なことは言うまい。


――駅前でよく見かける、宗教のアレみたいなもんかな。


張り出された羊皮紙を見る人々は真剣な顔をしている。

時折、法衣の一人が祝福と称して子どもの頭に手をかざすと、親が深々と頭を下げる。

俺はというと、馬車の揺れに合わせてため息をつく。

異世界にもカルトくらいあるか。いや、国教ならカルトじゃないか。


ノアは特に表情を変えない。

ルナは、目を細め、祈る人々に穏やかな微笑みを向けている。

俺は黙って腕を組み、なるべく関わらないように視線を逸らした。


――観光客扱いで済むならそれでいい。


相変わらず周辺では、人々の声が飛び交う。値段や品物のやり取りをしているのだろうが、まだよく理解できない。

落ち着いたら、言葉の学習だな。英語の勉強は嫌いだったんだが。しかし、この解析能力のおかげで、あまり苦労はなさそうだ。

その後は、この世界のことを知らないと。魔法について。生活について。元の世界に帰る方法について。知らなければならないことが、いくらでもある――ああ、ちょっと頭痛が。


「セト、疲れていませんか?」


ルナがこちらに心配そうな視線を向けてきた。

俺は笑ってみせる。疲れているに決まってるだろうが。未来の不安も山ほどある。


「全然疲れてないよ。これからのことも心配なんてしてないよ。もちろん衣食住の面倒は見てくれるってことでいいんだよね? 清潔な食い物と飲み物、あとウォシュレット付きのトイレも頼むよ」


日本語で返す。

ルナはきょとんとした顔で瞬きを繰り返す。もちろん通じていない。

ノアがじっと俺を見て、何か言いかけて――やめた。

言葉が通じなくとも、俺がふざけているのは伝わったらしい。


笑って誤魔化す。便利な人間関係の潤滑剤。けど、本当に欲しいのは潤滑剤なんかじゃない。

殺虫剤と消臭剤と抗生物質――つまり、“文明”だ。

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