変質

馬車の車輪が土を踏みしめる音が、規則正しく耳に届いていた。

森の匂いは濃く、湿った葉に時々、獣の気配が入り混じる。


ようやく戦いは終わったのだ、と頭では理解しているのに、体はまだ緊張を解けずにいた。

左腕は満足に動かない。傷そのものはもう塞がっている。しかし、傷ついた神経や腱は別物らしい。

「治癒」「魔法」というイメージに勝手に万能を期待していた分、その不自由さは妙に現実的で、余計にこたえる。


がたがた揺れる馬車に固いシート。新幹線が恋しい。

よく冷えたビール――いや、水が欲しい。自販機はどこだ。

人は文明に守られて初めて大自然の素晴らしさを感じるのだ。防虫スプレーをよこせ。


馬車は泉のほとりで停まった。

御者が馬の口に水を飲ませる間、兵士たちも全員ではないが、鎧を一部外して思い思いに過ごしている。


こちらに来てから、革袋のエールしか口にしていない。勧められ水だと思い込んで飲んだらエール――最初の一口目は思わず吐き出してしまった。二口目も温くて気持ち悪かった。


俺も泉へ歩み寄る。

生水――腹を壊すよな。喉の渇きは耐え難い。誘惑をこらえ、革臭いエールで我慢することに。


とりあえず手くらいは洗おう。

こびりついた血が乾いて、指の間に赤黒い痂がこびりついている。泉に浸して軽く揉み込むと、痂が剥がれ流れていった。


掌を広げてみる。

穴だらけだったはずなのに、皮膚は薄く張り直されて、ほとんど治っている。そんな気はしていた。治療などしていないはずなのに。


「……どうなっちまったんだ、俺の体」


皮膚の下に蠢く筋肉の動きが、前よりも機械的に正確に見える。

見慣れたはずの自分の掌。最も見慣れたはずの身体部位だからこそ、小さな違和感がはっきりと浮かび上がる。

骨ばり方も、指の節の形も、確かに“俺”なのに、“俺じゃない”。


顔を洗おうと身を乗り出した。

泉の水面が揺れ、そこに映った顔。


――俺じゃない。


輪郭も、目鼻立ちも、確かに面影はある。だが、はっきりと違う。

水面が揺らぐたび、違和感がノイズのように増幅していく。

解析するようにじっと見てしまう。情報が正しくても、受け入れたくない。

「似ている誰か」の顔が、そこに映っていた。


たぶん、俺は異世界に転移してきたんだろう。

こっちの人間は、微妙に俺の世界の人間と違う顔立ちをしている。

俺も、もう“こっち仕様”になっているのだ。


そうだ、体は――?

ためらいながらも、血と穴だらけのシャツを脱ぎ捨てる。


鍛えられた肉体美なんてものはない。だが、確かに俺の体ではなかった。

肩の厚み、胸板の張り、腰の細さ。わずかな違いなのに、どうにも“他人”のように見える。

触れれば自分の肌なのに、触覚と視覚の情報が一致しない。


俺は俺のまま肉体が変化した?

それとも、俺は俺の記憶をコピー&ペーストした別人?


――どちらでも同じことか。いまここに俺がいることには変わりがない。


「……本当に、どうなっちまったんだ俺の体」


泉のさざめきが、耳にまとわりつく。まるで嘲るように。

いや、それだけではない。


――ばさり。


森の茂みで、重く湿った葉擦れ。

鳥や小動物が立てる音とは違う。伏兵か――カイルスの不気味な笑みが脳裏をよぎる。


ノアが即座に剣を抜き、ルナを背後へ庇った。

泉の縁に片膝をついていた俺も反射的に立ち上がる。


茂みから姿を現したのは――獣。

だが、ただの獣ではなかった。


ネコ科の猛獣に似ている。だが骨格は異様に歪んでいる。肩が異様に隆起している。前足が異様に大きい。異様。異様。


「昼間から大爪豹か……!」


ノアが低く吐き捨てる。

俺も構える。体勢を低くし、右腕だけを怪物に向ける。

距離はまだ十メートルほどある。よく狙って――。


そのとき、獣は唸り声をあげるでもなく、全身をバネのように使って跳んだ。

一直線に俺へと迫る。速い。そして確実にここまで届く。


反射で右手に杭を構築、射出。

狙いは、開かれ巨大な牙が光る口部。獣が空中で身をよじり、杭はその毛皮をかすめる。

衝撃で跳躍の軌道を逸らすことには成功。射出と同時に回避行動にも入っている。

しかし、その長大な前足の制空権内からはわずかに離脱しきれず、爪が俺の頬を掠め、浅い切創を残して通り過ぎる。


「セト!」


後方からはルナの声。その後にもなにか言っているが、理解できない。


獣が数メートル後方に着地。すぐに切り返しの二撃目が来るかと思いきや、着地の勢いをそのままに、鎧を脱いでいた兵士へと向かう。


相手の身体スペックを大きく見誤っていた。

しかし、もうおおよそ見切った。僅かに滲んだ毛皮の血から防御面も見当がつく。

なにより、今度は俺が狙われているわけではないのだ。


落ち着いて右手人差し指を獣へと向ける。指さし確認のように。

マシンガンや拳銃のイメージのせいか、このほうが標準を付けやすい気がした。


弾丸を生成して連射。狙いは後ろ足。

これなら、外しても味方撃ちの心配はない。地面をえぐるだけだ。


数発の弾丸が後ろ足に食い込み、獣は前のめりに土を削りながら転がった。

なお暴れようとする獣。俺は駆け寄りながら、とどめとばかりに長い杭を構築、勢いのままに突き立てる。


崩壊し塵と化す杭。吹き出す鮮血。半裸の俺に降り注ぐ。すぐに洗い流せる泉があって良かった。

胴体を貫かれた獣は痙攣し、やがて動かなくなった。


「セト、無事ですか!」


おそらくそう言いながら、ルナが駆け寄ってくる。

彼女の心配そうな瞳に、一瞬だけ胸と下半身が熱くなる。


だが同時に、自分の掌を見る。

血に濡れて輝くそれは、やはり“俺の知る俺の手”ではなかった。

異物感の象徴のように感じられる自分の手。


(……俺は、本当にもう元の俺じゃないんだな)


森は静けさを取り戻し、泉に映るのは、相変わらず面影だけが残された他人の顔だった。俺はこの顔で、一体誰の人生を生きればいいんだ。


「……履歴書、もう一回作り直しだな。人体破壊は印象悪いから『特技:猛獣退治』って書くか」

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