【第4話「原典を追う」】
黒い主筆を握りしめた瞬間、書庫の奥へと道が伸びた。
まるで見えない手が紙を裂いて通路を描いたように、無数の棚の間に一本の直線が生まれる。闇の中で淡い光が点々と灯り、行間を示すように俺たちを導いていた。
勇者の俺は剣を携えたまま歩き出す。祝福を失った剣はもう光らない。だが、握る手は迷いがなく、逆にその姿が頼もしかった。
悪役の俺は肩口を押さえ、血に濡れた布を巻いている。痛みを隠すように笑っていたが、その笑みはかすかに震えていた。
王女は濡れたドレスの裾を気にも留めず、真っ直ぐ前を見つめていた。彼女の目には恐怖ではなく、決意が宿っている。
「奥にあるのが、原典……?」
俺の問いに、勇者の俺が頷く。
「そうだ。記述官が投げた時、確かに棚が沈んだ。あれは原典を守る仕組みだ。奥へ行けば必ずある」
「ただし、罠もある」悪役の俺が言った。「あれは世界の心臓部だ。誰が書き換えようとしても、反発が生まれる」
反発。
その言葉の意味を知るのに、時間はかからなかった。
進むにつれて、通路の壁に記号のような模様が浮かび上がっていった。
〈if〉〈else〉〈loop〉――どこかで見覚えのある制御文。だが、それは英語でも数学でもなく、物語を動かす“骨組み”として存在していた。
王女が足を止める。
「……何かが繰り返されている」
彼女の視線の先、通路の突き当たりに扉が見える。木の扉。真鍮の取っ手。
俺たちは頷き合い、勇者の俺が剣で押し開けた。
――同じ倉庫だった。
埃、木箱、雨の匂い。数刻前に俺たちが身を潜めた場所と瓜二つ。
悪役の俺が舌打ちする。
「ループか。抜け出させないための」
壁には文字が刻まれていた。
〈繰り返し:証拠を見つけるまで〉
証拠。
俺は胸の中の主筆を見下ろした。
「書くしかない。ここに“証拠”を」
掌が熱を帯びる。だが、具体的な言葉が浮かばない。どんな証拠が、俺たちをループから解放する?
王女が前へ出た。
「私が見つける」
彼女は箱をひとつずつ開けていく。埃まみれの帳簿、破れた衣装、壊れた燭台。
やがて、古びた金庫が見つかった。勇者の俺が剣で錠を断ち切ると、中には封蝋つきの書簡が眠っていた。
――宰相ヘルムートの署名。王家の印章を偽造し、金を横領した証文。
「これだ!」
悪役の俺が叫ぶ。
紙片を掲げた瞬間、通路の壁が音を立てて崩れ、再び光の道が現れた。
俺たちは走る。ループは破られた。
次の区画は広い円形の広間だった。
床一面に円環状の文字列が刻まれている。古代語のような曲線。
円の中央に、原典が鎮座していた。分厚い本。背表紙は革張りで、幾重もの鎖に縛られている。
だが、その前に――記述官の影があった。
崩れたはずの外套の残骸が、紙片を寄せ集めるようにして人型を再生していた。瞳の光はかつてより淡く、だが執念だけは消えていない。
「……筆を折られても、物語は消えない。私は“余白”から生まれた。原典がある限り、何度でも」
勇者の俺が剣を握り直す。
「何度でも立つなら、何度でも倒す」
悪役の俺は血に濡れた肩を庇いながらも、拳を握った。
「ここで決着をつける」
だが、記述官は動かず、ただ羽根ペンの残骸を掲げた。
「代替筆記者、篠崎蓮。お前が筆を得たなら――最後の審問を受けよ」
広間の円環が光り、無数の文字が立ち上る。
〈勇者か〉
〈悪役か〉
〈どちらでもないか〉
問いかける声が、空から降り注いだ。
勇者の俺が俺を見た。
「俺を選べば、力と栄光を得られる。だが、その代わり責任を背負う」
悪役の俺が笑う。
「俺を選べば、誰もが敵に回る。だが、そこにしか見えない真実もある」
王女がそっと言った。
「どちらでもないと答えれば……台本は壊れるでしょう。でも、壊れた先に何があるかはわからない」
心臓が痛いほどに鳴る。
俺は考える。勇者でも悪役でもない、俺自身。
この物語は、俺が書く。
主筆を掲げ、紙の空に大きく書きつけた。
〈選択:俺自身〉
文字が広間を満たす。円環の鎖が砕け、原典を縛っていた枷が外れる。
記述官が膝をつき、かすれた声を洩らした。
「……そうか。お前が“筆を奪う者”なら、私の役は終わりだ」
原典が光を放つ。棚の奥から膨大な文字列が溢れ、広間を埋め尽くす。
その中で、俺たちは互いに顔を見合わせた。勇者も、悪役も、王女も。
誰も言葉を失わなかった。
光が収まった時、俺の手にあったのは一冊の新しい台本だった。
表紙はまだ白紙。だが、最初の一行だけが記されている。
――「篠崎蓮は、勇者でも悪役でもない。彼自身として物語を綴る」
喉が熱くなった。
これが、俺の物語。俺たちの物語。
「さあ、次へ行こう」
俺は仲間たちに笑いかけた。
勇者の俺は微笑み、剣を肩に担いだ。
悪役の俺は血を拭いながらも、口元を釣り上げた。
王女は静かに頷き、ドレスの裾を握りしめた。
――次の章が、始まる。
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