第2話「芽吹く祠と灰狼の追手」

 森の朝は、王都とはまるで違った。

 空気は濃く湿り、光は枝葉の隙間から細く射し込む。鳥の声は幾重にも重なり、獣の気配は常に周囲を満たしている。だが、そのすべてが祠のある小さな空き地では遠ざけられているように感じられた。

 アルトは夜明けとともに目を覚まし、掌を見下ろした。そこにはやはり何の印もない。だが昨夜、確かに光は溢れ、リィナの傷を癒した。それは夢ではなく、現実の出来事だ。


「起きたか、アルト」


 祠の石に凭れながら眠っていたリィナが、金の瞳を細めて声をかけてきた。昨夜よりは血の気が戻っている。包帯の下で傷も塞がりつつあるのだろう。

 アルトは安心し、枝を拾って小さな火を熾した。朝の冷え込みを和らげるためだ。


「腹、減ってないか?」


「減ってるさ。けど……匂うな。甘い、土の匂い」


 リィナは鼻をひくつかせ、祠の前を指さした。

 そこでは、夜の間に芽がいくつも増えていた。露に濡れた若葉が、朝日を透かして光っている。昨日よりも土が柔らかく、瑞々しい。

 アルトは思わずしゃがみこみ、指先で土を掬った。驚くほどふかふかで、指に絡みつく湿り気は生命そのもののようだった。


「……ここに畑を作れば、何かが育つかもしれない」


「育てる気か? 逃げるのではなくて?」


「逃げる場所なんて、もう俺にはないから」


 自嘲気味に言ったはずが、口の端は自然に笑みへと歪んでいた。

 王都で「無能」と呼ばれ続けた男が、初めて自分から望んだこと。それは逃げることではなく、育てることだった。


 そのとき、森の外側で角笛の音が響いた。

 リィナが即座に耳を立て、低く唸る。


「追手だ。灰狼の匂いを嗅ぎつけた人間ども。昨日、私を仕留め損ねた連中が来た」


 アルトは胸を圧迫する鼓動を抑えるように深く息を吸い、膝に置いていた棒を握り直した。

 無能の烙印は簡単には消えない。だが祠の風と土が確かに自分に応えてくれた。リィナの命も救えた。ならばもう、一歩退く理由はなかった。


「守ろう。ここを」


 その声に、リィナは驚いたように目を瞬かせ、すぐに口端を吊り上げた。


「人間にしては、ずいぶん強がるじゃないか」


「強がりでもいい。ここを失うわけにはいかない」


 角笛は近づいている。枝を折り、鎧の擦れる音が混じって聞こえる。数は五、いや六か。森を踏み分ける重さからして、騎士の小隊だろう。

 アルトは喉を鳴らし、祠に目を向けた。

 昨夜、手を合わせたときに吹いた風。芽吹いた土。あれは偶然ではない。もし祠が森を護っているのなら——ここで願えば、何かが起こるのではないか。


 祠の前に跪き、両手を合わせる。

 言葉は浮かばない。だが心の中でただ一つ、「護ってくれ」と祈った。

 すると、石板の隙間から再び風が吹いた。昨夜よりも強く、湿り気を帯びた風が渦を巻いて空気を震わせる。

 芽が一斉に揺れ、淡い緑光を放った。


「アルト、なにを——」


 リィナの言葉を遮るように、森の茂みが割れた。

 銀の鎧に身を包んだ六人の兵士が姿を現す。槍と剣を構え、その中央で指揮を執る男が低く叫んだ。


「灰狼族の女を渡せ! 抵抗すれば共に討つ!」


 リィナが歯を剥き、低く唸った。だが体はまだ完全ではない。立ち上がるだけでも精一杯だ。

 アルトは前に出た。棒きれ一本。震える膝を叱りつけ、声を張り上げる。


「ここは渡さない!」


「何だと? ただの追放者風情が!」


 兵士が剣を振りかざして突進してくる。

 その瞬間——地面が鳴った。祠の前の土が隆起し、兵士の足元から絡みつくように根が伸びた。たちまち足を取られ、兵士は転倒する。

 驚愕する声が上がる。アルト自身も目を見開いた。

 祠の芽が、彼の祈りに応えたのだ。


「リィナ、今のうちに!」


「……面白い。人間、やるじゃないか!」


 リィナが呻きながら立ち上がり、槍を奪って振るった。狼の尾が翻り、兵士の鎧を裂く。

 アルトも必死に棒を振るう。まともに剣を受ければ折れるに決まっている。だが根に足を取られた兵士相手なら、隙を突くことができた。

 頭よりも先に体が動く。棒が肩を打ち、兵士が呻き声を上げる。


「くそっ、呪いか!?」


「退け! 森が我らを拒んでいる!」


 指揮官が叫んだ。兵たちは互いに顔を見合わせ、後ずさる。根はなおも足元を絡め取り、枝葉が低く唸るように揺れている。

 彼らはついに恐怖に駆られ、撤退した。角笛の音が遠ざかり、森は再び静寂に包まれる。


 アルトは膝をつき、荒い息を吐いた。棒はひび割れ、今にも折れそうだった。

 リィナが彼の肩を支える。金の瞳が細く輝いている。


「無能だと? とんだ嘘だな。おまえ……神々に選ばれし者だろう」


「俺は……ただの追放者だ」


「その手が嘘をついているぞ」


 リィナの視線が、アルトの掌を射抜く。

 そこに浮かんでいたのは、淡い光。祠と同じ色を宿す芽吹きの光だった。


 アルトは言葉を失った。

 だが心の奥底で、ひとつの確信が芽生えていた。

 自分は「無能」ではない。

 ここから始まるのだ。無力を告げられた青年の、神々の寵児としての物語が。

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