第15話 愛を失った夫婦の音
夫婦の音は、愛を語らずに欠落を突きつけた。
恵理子は夕食の片づけを終えると、いつものように夜の仕事へ出かけていった。
玄関のドアが閉まる音が、狭い部屋にかすかな余韻を残す。
そのあと、私と沙耶は自室に籠もり、机を並べて勉強を始めた。
鉛筆の先が紙を削る音と、ページをめくる音だけが小さく続く。
互いに言葉は少ない。
けれど、その沈黙は不思議と安心できるものだった。
やがて、玄関の鍵が回る音。
浩司さんが帰宅したのだ。
リビングからは電子レンジの「チン」という音。
食器が触れ合うかすかな音。
一人で夕食を済ませ、淡々と片づけている気配が伝わってきた。
その背中を想像すると、胸の奥にひやりとしたものが残る。
やがて家の中は静まり返った。
テレビの音もなく、冷蔵庫のモーター音だけが遠くで唸っている。
——こんなふうに、毎晩一人で食事をして、静かな部屋で過ごしているのだろうか。
父として家族に囲まれるはずの時間を、孤独で埋め合わせているのだろうか。
私は無意識に、浩司さんの寂しげな背中を思い浮かべた。
しばらくしてドアの閉まる音。
彼は寝室へと向かったらしい。
直後、入れ違いのように玄関が再び開き、ヒールの硬い音が廊下に響いた。
恵理子が仕事から戻ってきたのだ。
「……もうこんな時間か」
沙耶が小さくつぶやき、机の電気を落とす。
私たちは勉強を終え、それぞれのベッドへ潜り込んだ。
だが、目を閉じても眠りは訪れなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
静まり返った闇を破るように、壁の向こうから音が伝わってきた。
最初は低く押し殺した吐息。
続いて、木がきしむような乾いたベッドの軋み。
一度途切れては、また始まり……
湿った呼吸と交互に繰り返される。
——恵理子と浩司の寝室から漏れる、夫婦の営みの音。
前にも、一度だけ聞いてしまったことがある。
そのときは笑い声なのか泣き声なのか分からない母の声が混じっていた。
だが今夜は違った。
感情の揺れさえない。
必要最低限の動作だけで刻まれる、冷え切った音。
愛情の余韻など、どこにもなかった。
私は布団を頭まで引き寄せ、両手で耳を塞ぐ。
それでも音は骨の奥まで染み込み、消えてはくれない。
——聞きたくない。忘れたい。
そう願うのに、心のどこかで必死に耳を澄ませている自分がいた。
母は、幸せなのだろうか。
浩司さんを愛しているのだろうか。
二人は本当に「夫婦」として結ばれているのだろうか。
そして——私たち娘のことを、どう思っているのだろう。
問いは次々に浮かぶのに、答えはひとつも返ってこない。
耳を塞げば想像が膨らみ、塞ぐのをやめれば現実の音が突き刺さる。
逃げ場はどこにもなかった。
暗闇の中で小さく身じろぐと、下の段の布団がかすかに揺れる。
沙耶もきっと、この音を聞いている。
気づきながら、目を閉じて耐えている。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たい塊が沈んだ。
私と沙耶の間に横たわる「欠落」。
それは、母と父の間にも確かに存在している。
その事実を認めてしまうことが、何よりも恐ろしかった。
下の段から、布団のきしむわずかな音。
沙耶もきっと同じ音を聞いている。
けれど互いに何も言えず、その沈黙が返事のない悲鳴のように思えた。
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