第2話 北の砦へ
北へ向かう街道は、まだ朝露をまとっていた。
リュミナと並んで歩く。白茶の犬は当然のように付いてきて、時折振り返っては俺の足並みを確認する。
彼女の足取りは速い。だが、肩越しに覗く横顔には焦りがあった。
「瘴気の波って、どういう状態だ?」
「魔王軍の領から断続的に吹き出す黒い霧よ。触れた生物の魔力を歪め、暴走させる。……癒やし手だけでは、抑えきれない」
「なるほど」
補助師の仕事は、状況を整えることだ。ならば瘴気そのものではなく、“持ちこたえる時間”を延ばせばいい。
村を離れると、森が深まっていった。鳥の声が急に止み、木々の間から冷気が流れ込む。
犬が低く唸った。俺も立ち止まる。風に、血の匂い。
――道の真ん中に、黒い獣がいた。
狼に似ているが、目が六つ。皮膚の下で黒煙が蠢いている。瘴気に侵された魔獣だ。
「下がっていろ」
俺は符を一枚取り出し、手首をひねって宙に散らす。符はぱらりと砕け、微かな環を描いた。
「《補環・強靭化》」
犬の体に光が走る。次の瞬間、犬は跳んだ。
黒狼の首に噛みつき、地面へ押し倒す。だが、狼はすぐさま逆の顎で犬の腹を狙った。
俺はさらに符を切る。
「《補環・再生触媒》」
光が犬の毛並みに吸い込まれ、血が滲んでも瞬時に塞がる。
狼は苦鳴を上げ、やがて崩れ落ちた。黒煙が霧散する。
リュミナが息を呑んだ。「……補助だけで、ここまで?」
「補助は万能だ。組み合わせさえ間違えなければ、な」
俺は犬の頭を撫でた。傷一つ残っていない。犬は得意げに尻尾を振った。
その光景を見ていたリュミナの目に、ほんのわずかな涙がにじんでいた。
「どうした?」
「……あの子を見ていたら、思い出して。私たち癒やし手は、いつも“後始末”ばかり。守る力がなくて、仲間を何人も失った。あなたの補助があれば……救えた人が、いたかもしれない」
その声は、俺の胸をかすかに締めつけた。
俺の補助は地味で、伝わらない。だが今、目の前で誰かが“救い”として見ている。
「大丈夫だ」
俺は短く言った。「今回は失わない。俺がいる」
リュミナははっとして、唇を噛んだ後、小さく笑った。
*
北の砦が見えたのは、昼を過ぎたころだった。
石壁の上には、怯えた兵士たちが並んでいる。砦全体を黒い霧が覆っていた。
「これが……」
霧は風に逆らうように渦を巻き、地面に染み込む。土は割れ、草木は枯れている。
「中に入る。兵たちに伝えてくれ。俺は補助師だ、と」
門をくぐると、内部には負傷者の呻き声が広がっていた。腕を黒く変色させた兵士、息も絶え絶えの弓手、祈るしかない神官。
その中心で、若い隊長らしき男が怒鳴っていた。
「持ちこたえろ! 援軍は必ず来る!」
だが声は空虚だった。
俺は前に出て名乗った。「アレン。補助師だ」
兵士たちの視線が一斉に突き刺さる。訝しむ者、失望する者、しかし僅かに希望を宿す者。
俺は荷を下ろし、薬草と粉末を取り出した。
「まずは全員に符を配れ。効果は小さいが、霧の侵食を遅らせる。俺が印を重ねれば、持続は数倍になる」
隊長が目を見張った。「できるのか……?」
「できる。信じろ」
リュミナが後ろから声を重ねる。「この人は奇跡を起こす補助師よ!」
場の空気が一気に揺れた。
俺は符を一枚ずつ兵士の胸に貼り、魔力を重ねて繋いでいく。光が鎖のように広がり、砦全体を網目のように覆っていく。
「《補環・全域結界》――!」
黒霧が砦の壁にぶつかり、はじかれた。
兵士たちが歓声を上げる。希望が、音になった。
しかし、俺は知っていた。これは一時しのぎだ。霧の源を断たねば、結界はいつか破れる。
犬が低く吠える。北の山の奥――そこに、本当の脅威が潜んでいる。
(のんびり暮らすはずが……どうやら、まだ遠そうだな)
俺は杖を握り直した。
戦いは、ここからだ。
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