第16話「取引の囁き、声の代償」

 夜が深まり、村は寝静まった。

 広場の吊台の影の下で、俺はひとり立っていた。

 喉の奥がじりじりと焼けるように痛む。声を出そうとするたび、影が舌の裏に貼りつく。

 ――「声を返そう。その代わりに、おまえの声をよこせ」

 囁きは甘い。だが、甘さの奥に骨を砕くような冷たさがある。


 ミナの眠る小屋を背に、俺は声を絞った。

 「俺の声は……俺のものだ」

 だが、その返事が遅れて響いた。

 「俺の声は……俺のものだ」

 影が、俺の声を真似て返す。

 すでに“皮”と“本物”の境界は曖昧だ。



 翌朝、広場に集まった村人は俺の顔色に気づいた。

 カイが真っ直ぐに問う。「リク。……奪われたのか」

 「まだだ。だが囁きは取引を持ちかけてきている」

 村人の間にざわめきが走る。

 老婆が杖を突きながら嗤った。

 「ほら見な。囁きは最初からおまえを狙っていた。戻ってきた拍ごと声を食われるんだよ」

 ヨルグは険しい顔で言う。「違う。狙われているのは“戻る力”そのものだ。おまえが境を切ったから、影はおまえに結びつこうとしている」


 老人が杖を鳴らして沈黙を作った。

 「どちらにせよ、試さねばならぬ。リク、おまえが声を奪われぬことを示せ。村はそれを支えよう」



 試みは昼に行われた。

 輪は二重、三重に組まれ、俺はその中心に立つ。

 「ひとつ」

 合声が厚みを持ち、広場を覆った。

 「ふたつ」

 俺の声は掠れ、遅れて返ってきた。

 外から、俺の声と同じ声が「ふたつ」と唱える。

 合声が押し出す。

 だが、消えない。

 俺の声の“皮”が外に浮かび続けている。


 「リク!」ミナの声が響く。「奪わせないで!」

 俺は喉を押さえた。

 皮を引き剝がすように、返拍を打つ。

 「みっつ」

 心臓を逆に刻み、喉を締め付ける。

 「よっつ」

 逆拍を重ね、声を無理やり押し込む。

 血の味がした。

 だが外の声は、まだ俺を真似ていた。



 その時、弟が一歩前に出た。

 声を持たない彼が、口を大きく開いた。

 音は出ない。

 だが俺の耳には――確かに「いつつ」と聞こえた。

 奪われた声が、影を通じて返ってきている。

 囁きは俺と弟を繋ぎ、声の境目を曖昧にしていたのだ。


 「……取引だ」

 俺は気づいた。

 俺が声を差し出せば、弟に声を返す。

 囁きはそう囁いている。

 弟の喉が震え、今にも言葉を得ようとしている。

 だが、それは俺の声を代償にしてだ。



 「リク!」

 ミナが叫ぶ。

 「だめ、声を渡しちゃだめ! あなたの声は――私たちの声でもあるんだよ!」

 彼女の声が涙で震えていた。

 合声が重なり、広場を満たす。

 「むっつ」「ななつ」……。

 囁きはその外で、俺の声を重ね続けていた。

 ――「ひとつ多い」。


 老人が杖を突いた。

 「リク。決めるのはおまえだ。声を守るか、渡すか。……だが忘れるな。渡した声は二度と戻らぬ」


 弟の瞳が俺を見ていた。

 声を求める、必死の眼差し。

 胸の奥で囁きが甘く響いた。

 ――「返してやろう。おまえの声と引き換えに」



 俺は目を閉じた。

 返拍を打ち、無拍を作り、喉を閉じる。

 声を差し出す寸前で、ミナの手が俺の手を握った。

 温かさが走り、胸の奥に小さな光がともる。

 俺は囁きに向かって言った。

 「取引はしない。俺の声は俺のものだ。弟の声も、弟のものだ」


 その瞬間、囁きが裂けるように笑った。

 広場の外にいた“俺の声”が、粉々に砕けるように消えた。

 弟の喉が震え――かすかに、音を漏らした。

 「……ひとつ」


 広場がざわめきに包まれた。

 声は掠れて小さかった。

 だが確かに、弟自身の声だった。



 俺は喉に手を当てた。

 まだ声はある。

 奪われなかった。

 囁きは怒っているのか、笑っているのか分からない声を耳の奥に残し、遠ざかっていった。


 老婆が呟いた。

 「渡さなかったか。……なら影はもっと欲しがるよ」

 老人は杖を突き、静かに言った。

 「それでいい。欲しがらせろ。……我らの声は、奪われて終わるものではない」


 俺は弟を抱きしめ、胸の奥でひとつ数えた。

 ――俺の声は、俺のものだ。

 そして弟の声も、弟のものだ。

 その当たり前を守るために、俺は戦う。

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