第12話「影の余白、声を埋める者」

 広場の声は、もう鐘に頼らない。

 子どもたちが「ひとつ」と唱え、女たちが「ふたつ」で受け、若い男たちが「みっつ」と繋ぐ。

 声の拍がぐるりと回ってくるだけで、村は安心した。

 だが俺には、まだ耳の奥に沈殿する余白があった。

 無拍でほどいたはずの結び目。その跡が、影のように耳にまとわりついている。


「リク」

 ミナが袖を引く。子どもたちの輪から少し離れ、俺の顔を覗き込む。

「顔がこわばってる。まだ“拍”を見てるの?」

「……ああ。紐は切った。でも、残り香みたいに余白がある。声で埋めなきゃ、また影に取られる気がする」

 言いながら、自分の声が少し震えているのに気づいた。

 影は器を通らずとも、余白に棲める。俺自身がその余白になってしまうかもしれない。



 その夜の夜警。

 輪の外を見張る役に回ったカイの弟が、手拍で「危険なし」の合図を打った。声は出ないが、手の音は確かだった。

 だが、彼の手拍の最後に――半拍遅れて、もうひとつ音が響いた。

 誰も叩いていない。

 空気が、石畳が、勝手に返した音。

 俺の背筋が凍った。

 「……聞こえたか」

 老人は杖を握り直し、短く答えた。「ああ。まだ、余白は残っている」


 広場の中央で、老婆が笑った。

 「拍を奪う影は器じゃなく、人の中にある。――だから器をほどいても影は死なない」

 ヨルグも口を開く。「無拍は境目を切った。だが、境目を切れば、切り口が残る。そこに棲みつくのは、昔から“囁き”と呼ばれていた」

 囁き。

 拍の外で声を真似、数えに割り込むもの。



 翌朝、試みた。

 広場に輪を作り、数えの途中でわざと空白を長めに取る。

 すると――必ず、その空白に「声」が返ってきた。

 人の声ではない。誰の喉も震えていない。

 だが確かに、「いつつ」「むっつ」と、遅れた声が紛れ込む。

 子どもたちは震え、大人たちは口をつぐみ、広場に緊張が走った。


「これが、“囁き”」老人が言った。

「影は器を失った。今度は声の空白に宿ろうとしている」

 俺は拳を握る。「なら、空白を埋めればいい。囁きより先に、俺たちが声を置く」

 ミナが強く頷いた。「返拍だけじゃ足りない。**合声(あわせごえ)**を作ろう。二人で同じ拍を言えば、囁きは入る隙がなくなる」



 試す。

 「ひとつ」

 俺とミナが同時に声を合わせる。

 「ふたつ」

 子どもと老婆が同時に言う。

 「みっつ」

 若い男と老人が重ねる。

 拍は厚みを持ち、輪の中で重奏になった。

 囁きは一瞬、迷ったように「よっ……」と欠けた声を漏らし、それきり押し黙った。


 影は、器から声へ、声から余白へと逃げ込んでいた。

 だが余白を埋める術を、人は手に入れた。

 声の重なりは、鐘よりも鈴よりも強い。

 俺の胸は熱くなった。

「……これなら、奪われない」

 ミナが笑う。「うん。私たちの拍だね」



 けれど。

 広場の外――塔の影の伸びた先で、別の声が返った。

 「ひとつ」

 それは、俺たちの輪に合わせるでもなく、外側から並走する声だった。

 若く、澄んでいて、どこか懐かしい。

 カイの顔が一瞬で凍る。

 「……弟の声だ」


 声のないはずの弟が、影の奥で数えている。

 それは余白に棲む囁きか、あるいは――弟自身の奪われた声なのか。


 広場の輪は乱れなかった。

 だが、誰もが気づいていた。

 影は死んでいない。

 次は“奪われた声”として、戻ってきている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る