第36話🐒「お詫び」
浪人期間は一年限りと決めている。化け物騒ぎや恋愛のゴタゴタでまた一年を棒に振ってたまるかというのが柳楽の本音であった。
柳楽が化け物であろうと、人間であろうと、日常は何も変わらない。今日も規則正しく朝起き、朝食を食べ、コンビニでジャスミンティーを買い(この日は知里佳はシフトに入ってはいなかった)、予備校に通う。
今日の一限は英語の集団講義だ。柳楽はなるべく規格外の体格が邪魔にならない端の方に席を陣取る。
「あ、柳楽くん。おはー」
そう気軽に話しかけてくるのは、時折顔を合わせる受講生の
「おはよう。……神谷さん、髪長いよね。何年くらい?」
「ん? どうかな、割といつも伸ばしてるからなー。三年くらいかなー?」
神谷の髪の毛は肩下、肩甲骨の辺りまでだ。知里佳の髪の毛はもっと長かった。それを切らせてしまったのか、自分のせいで。
柳楽は今更ながら罪悪感が胸に重くのしかかってきた。
「ケアとか、結構大変だよな。そんなに長かったら。乾かすのも」
「まあねー。でもウチは推しと同じ頭にしたいだけだから、好きでやってるだけ。柳楽くんもメンズにしちゃ長めだよね。なんかこだわり? それとも不精の方?」
獲猿に変化をすると、何故か人の姿に戻ったあとも髪が伸びたままだ。いちいち切っていたら美容院代が勿体ない。選択肢としては坊主か長めにして結ぶかの二択で、当座は後者を選んでいる。最もそんなことを神谷に言っても詮無いことなので言うつもりもないのだが。
「願掛け的なやつかな。卒業したらバッサリ切るよ」
と、適当な話をしてお茶を濁す。神谷はこれがウチの推しだと海外のメタルバンドの画像を見せてきた。大学に通うのを決めたのもこのバンドに出会ったことがきっかけだと饒舌に語っていた。
講師が入室し、離れた席に座り授業がはじまる。
(橘さん、あんなに長かったってことは、多分五年くらいは伸ばしてたってことだよな)
(あんなに綺麗な髪だったのに、俺が台無しにしてしまった。俺の中の化け物があんなことを言うから)
(何かお詫びをしなければ。……でも、どうやって?)
ガラス越しの距離でなければ、まともに会話もできないというのに。
「すいません、プリント。後ろ回してください」
そう後ろの席の受講生に言われて自分があさっての方向に思考を回しすぎていたことに気づいた。柳楽は慌ててプリントを掴んで後ろに回す。勉強に集中できないのはとてもまずい。このままでは浪人期間が長引いてしまう。何とかしなければ。
+++
【おつかれさまです。今、バイトが終わったところなんですが、ちょっとおうかがいしてもいいですか?】
柳楽が家庭学習をしていると、ポコンとスマホの振動。橘知里佳からのメッセージだった。
正直、困る。外でなら、もしくは衆人環視の元でなら、理性を失わずに人間として会話できるとは思う。
だが二人きりで自分の部屋でとなると、化け物猿が大人しくしていられるだろうか。ガラス越しでいいから、と以前は約束したが。とても自信は持てなかった。
柳楽は頭をぐるぐると捻り、【俺の部屋はちょっと。エントランスとかじゃダメ?】そう返信する。
ポコン。再びの返信。
【お話があって。ガラス越しで。構わないので】
柳楽は眉をしかめる。地元に居た頃は、ただの人間だった頃はそうでもないのに、都会に出てからは眉間に皺が寄りっぱなしだ。それは新生活の慣れなさでもあり、自分の中の化け物が原因でもあり、何よりこの引っ込み思案と思わせて人の話を聞かない女の子のせいだったりする。
(なんだよ。二回も襲われかけといて。危機感なさすぎるだろ、頭悪いのか?)
頭をガシガシと掻く。はぁ、と深く肺から息を吐いた後、雪男が「了解」と親指を立てているスタンプを押した。
+++
柳楽は、ガラス一枚隔てた向こうにいる知里佳の言うことが到底信じられなかった。
何を言っているんだ。あんな目に合っておきながら。この子は化け物に呼びかけるのか? 自分以外を攫うなだって?
頭が混乱する。心臓の音がばくばくとうるさい。それにしても暑い。体温が上がっている感じがする。あぁ、呼ばれたから出てきたいのか。
すりガラスの向こう側に小さな手のひらが見える。柳楽がそこに手を当てると、それはすっかり黒い肌と白い毛の化け物のものに変わっていた。
(嬉しいな。お前の方から俺を呼んでくれた)
(自分から連絡して呼び出して、更にこんなことを言うなんて。可愛いな。そして、健気だ)
(俺たちの間にもうガラス扉なんていらない。障壁も身体の壁も取っ払ってしまおう。二匹でぴったりとくっついて、愛し合って、子供を作ろう)
腹の奥底から、本能がそう己の欲望を吐き出し続ける。心臓が痛いほどに拍動を繰り返す。
今すぐ雌の元へ行こう。支配したい。組み敷いて、口をつけて、愛してやろう。雌の最上の悦びを与えてやろう。その腹に俺の痕跡を残し、早く、こいつを俺のものに、
「させるかよ」
柳楽はそう呟くと、拳を固く握り締め己の右頬を殴りつける。骨と骨がぶつかる音。頬から鼻にかけて衝撃が走る。奥歯をしっかり噛み締めていたから口の中は切れたり歯は折れたりしていない。
だが、鼻の血管が切れたようで鼻血がぼたぼたと床に落ちる。覚悟はしていたが、痛い。視界にチカチカと光がちらつく。
その痛みを代償に、化け物の意識はすっと腹の中に引っ込んでいった。猿の身体もしゅるしゅると萎むように人間のものへと変化する。
「柳楽さん? 今大きな音がしたみたいですけど、大丈夫ですか?」
知里佳が声をかけてくる。柳楽は手が通る幅だけ小さく扉を開ける。
「橘さん。悪いけどティッシュとって。台所の食器棚の側」
「え、は、はい」
知里佳はバタバタと箱ティッシュを掴み、扉の隙間から差し出す。
「ありがとう」
と、柳楽が受け取る手にはべったりと血が着いていて、知里佳がひっと声を上げる。
「な、柳楽さん! 血が!」
「気にしないで。鼻血だから。殴ったら血管切れた。それだけ」
「な、なんでそんなこと……」
「なんでそんなことしたと思う?」
「……私が、獲猿さんに声をかけたから……?」
「襲われなくて良かったね。俺の類稀なる自制心に感謝して欲しいくらいだよ」
嫌味ったらしくなってしまったと柳楽は少し反省する。だが、これくらい言っても許されるのではないだろうか。
自分は必死に理由を説明して、化け物に負けたくない、犯罪者になりたくない、だから近づくなと懇願したのに、化け物の方に呼びかけなどされたのだから。たまらない。
真っ白なティッシュがみるみるうちに赤く染まっていくのが一周回って面白かった。
知里佳はきっと深く落ち込んでいるのだろう。ガラスの向こうからすすり泣きのようなものが聞こえてくる。はぁと深くため息をつき、柳楽はゆっくりと扉を開ける。
体操座りをしてうなだれる知里佳に声をかける。
「橘さん」
「な、なんですか?」
「肉好き?」
「え?」
「バイト代も入ったし。肉を食べに行こう。三駅先に美味しい焼肉屋があるって教えてもらったんだ。君に髪を切らせてしまったお詫びもしたいし。いや、飯奢ったくらいで罪が消えるとは思わないけど」
「……そんなの気にしないで下さい。それに、流石にこの格好で街にはいけないです」
「じゃあ一時間後にニコニコマートで待ち合わせ、でいい?」
知里佳は何事を言おうかと上を見たり下を見たり視線をウロウロさせていたが、
「……分かりました」
そう観念したように呟いた。
「じゃ、それで。一時間後。またね」
知里佳は何か言いたそうな顔をしてしばらく俯いていたが、諦めたように「お邪魔しました」と言い、部屋を出ていった。
鼻血は五分も押さえていたら簡単に止まった。口の中に鉄の味がするのが気持ちが悪い。シンクにべっと唾を吐くと真っ赤に染っていた。
鼻を摘んでいた手を離すと、部屋に知里佳の残り香が漂っていたことに気がついた。
本当に、雌の香りは自分の中の化け物を昂らせて嫌になる。
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