第31話🌸「君は馬鹿か⁉」

 目の前に化け物がいる。

 白くて、大きくて、角があって、そして満月みたいにぎらぎら輝く目をした化け物が。


 瞬間、思い出したのはつい数日前のことだ。目の前にいる白い大猿に攫われ、襲われた。その時の恐怖はまだ身体に残っていて、意識すると指先が震えてしまう。


 その、震える指先を反対の手でぎゅっとつかむ。


「なん……で。そんなこと、言うんですか」


 絞り出した声は、震えていないことを祈る。もし、怯えて逃げ出してしまったりしたら、ここまで来た意味がなくなってしまう。


「ゆっくり……好きになりたかったって。そう言ってくれたのは、柳楽さんじゃないですか。それなのに、話もしてくれないなんて」

「君は馬鹿か⁉」


 化け物が、一層大きな声を上げる。目も見開いて、怒っているのか呆れているのか。唇が少し戦慄いている。


「もうとっくにそんな段階は終わってるんだよ! 俺は君を襲った! 君は化け物に蹂躙されかけたんだっ。事に至る前に止めてもらえたのは、ただのラッキーでしかないんだよっ」

「で、でも」

「でもじゃない!」


 はぁはぁと、化け物が――いや、白猿の姿に変じた柳楽は息を荒げ、頭を掻き上げる。


「俺はもう君の前から消える。俺は犯罪を犯しかけた――どころか、実際に犯罪者として警察に突き出されても文句なんて言えない。そういうことを、君にしたんだ。分かるか? 君は被害者なんだ」

「わ、分かってます。本当にあの日は、すごく怖かった……し。どうしたらいいか、頭が混乱して」


 思い出すと、心臓がそれだけでバクバクする。

 怖かった。化け物の姿をしたものに襲われることも。それが普段まったくそんな素振りを見せない柳楽だということも。


 ――けれど。


「それでも……柳楽さんに、いなくなられるの……嫌だから……ッ」

「はぁ⁉︎ ちゃんと怒れよ! 危機感持てよッ」


 思いきって勇気を出して言ったはずの言葉は、呆気なく柳楽の怒声に叩き落とされる。知里佳はむっと拳に力を入れた。


「そうやって大きな声出さないでください……! 私なりに、いろいろ考えてきたんです、この数日。ていうか、思いきってピンポンしても、柳楽さん昨日とかも出なかったし……それがようやく出てくれたと思ったら、こんな」

「今日だけじゃないのかよ来てたの……。俺、今朝まで実家に……いや、そうじゃなくて。どんだけ呑気って言うか……」


 それまで怒った態度を見せていた柳楽が、ふっと力が抜けたように頭を抱え込んだ。


「見て分かるだろ……俺、化け物なんだよ。人間じゃないんだ。話したよね、あの日も。獲猿っていう、女の人を攫う化け物で――」

「分かってます。覚えてます。だから……切ったんです、髪」


 切ったばかりの、明るい色をした髪を摘みながら、知里佳は呟く。


「獲猿さん……が、髪に触りたがってたから……これ切ったら、少しは違うかなって。それに、服装もあんまり女の子らしくなくして、それで、これなら柳楽さんと普通に」

「そんなのなんの意味もない!」


 もはや、柳楽の声は怒声ではなく悲鳴に変わっていた。

 今にも泣き出しそうな顔で、白猿姿の柳楽はなおも言い募る。


「君は俺の中の化け物に白羽の矢を立てられたんだ! 姿を変えたって、どこに隠れたって見つけ出される――化け物に選ばれるっていうのは、そういうことなんだよ! 髪を切ったり服を変えたりしたって、そんなのっ」

「じゃあ他にどうすれば良いんですか⁉」


 叫ぶように言い返した知里佳に、柳楽が目を瞬かせる。自分より遥かに小さい女が、弱い女が、正面から化け物を怒鳴るなんて、思ってもいなかったのかもしれない。

 ぐちゃぐちゃな頭の中から、知里佳は必死で言葉として想いを掻き集める。


「教えてください、どうしたら良いの⁉︎ 髪切って、服装変えて、それでも足りないって言うならなんでもしますっ! どうしたら獲猿さんじゃなくて、柳楽さんと落ち着いてお話しできるんですかっ、私……柳楽さんに引っ越して欲しくなんてない! どうしたらそれが分かってもらえるんですか⁉」


 一気に叫んだせいで息が詰まり、せこむ。浅黒く変わった柳楽の顔が、呆然と知里佳を見下ろす。


「橘さん……」

「遅いなんて……言わないで、ください……」


 涙をぐいっとジャージの袖口で拭いて、知里佳は満月の瞳を正面から見つめた。

 頭の奥にあったのは、割れた窓から差し込む月明かりに照らされた、柳楽の泣き顔で。


「ゆっくりで、いいから。私のこと……今より好きに、なって欲しい……。私はもう、柳楽さんのことが――大好きになっちゃってるから」

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