第29話🐒「いやなことあったの?」

 柳楽が長い髪を拭きながらリビングに戻ると、ぼたんが朝食を作っていた。


 野菜たっぷりの豚汁、赤子の顔くらいありそうなおにぎりが二つ。中身は昆布とツナマヨネーズだろう。それから、沸かしたてのジャスミンティー。懐かしい、慣れた家庭の味だ。


 小さな声でいただきますと手を合わせて食べはじめる。エネルギーがからっぽだった脳と身体に染みていく気がする。


「美味い。ありがと、朝早いのに」

「それよ。今まだ五時じゃない。今日も仕事なのに。八時まで寝られたのになー」

「ごめん。二度寝していいよ」

「いいの。今日は休む。あんた一人にしておけない」

「ほんと、ごめん」


 ぼたんはぽんぽんと頭を撫でる。それだけで柳楽の涙腺はじわっと緩む。


「いいのよ。母親なんだから。何か、予備校とかバイトとかでいやなことあったの?」


 熱いジャスミンティで米粒をぐっと胃に流し込む。

 ペットボトルのものよりずっと濃くて香りも強い。これが柳楽家の家庭の味で、慣れ親しんだ香りだった。


「考えたら止まらなくて、自分じゃどうしようもなくて、帰ってきてた。母さんに、訊きたいことがあるんだ」


 誤魔化されたくない、きちんと答えを聞きたい。柳楽は真っ直ぐぼたんの目を見て問いかける。


「母さんは、なんで化け物の子を産んで、育てたんだ?」


 リビングにかかった掛け時計がカチカチと音を立てる。たっぷりと時間がかかって、ぼたんは低い声で問い返す。


「それ、どういう意味?」

「……俺が化け物だって、獲猿だって知ってから、自分なりに調べた。獲猿は人間の女に子を産ませる化け物だって。化け物は女が子供を育てないと許さないで、放棄しようとすると、殺すんだって」


 口の中が乾いていく。言葉が転がるように飛び出してきて止まらない。柳楽は大きな背中を丸めるように、嗚咽を漏らして泣いていた。


「母さんは化物に目をつけられたから、仕方なく俺を産んで、育てたんだろ。苦しかっただろ。化物に出会わなければ、目をつけられなければ、俺がいなければ、もっと違う人生を歩めたのに。俺がいなければ、不幸になる女がいなかったのに。少なくとも、俺は、母さんと、これからもう一人女を不幸にしようとしていて、俺が、化物だから、俺は、産まれてくるべきじゃなかった。産まれてきちゃいけなかった……!」


 リビングにぱしんと大きな音が響く。


 意識が痛みに向かうのに時間がかかった。ぼたんが頬を盛大に平手打ちしていたのだと柳楽は遅れて理解した。


「あっ、ごめん。でっかい蚊がいたの。不可抗力よ」


 ぼたんはそう言うと手のひらをウェットティッシュで拭う。本当にそんなものがいたのだろうか。かゆみは感じない。それ以前に痛くて仕方が無い。

 身長は柳楽の胸くらいまでしかないのにその力はとても強かった。


 はぁ、と柳楽に背中を向け大きなため息をつく。


「凌、あんたね。朝五時に起こしてこんな豪勢な朝食作って貰っておきながら、あたしがあんたのことどう思ってるのか本当に疑ってんの?」


 振り向いたぼたんの目には涙が滲んでいた。表情は変わらない。これは一番怒ってる時の顔だ。


「一人でここまでクソデカくなったような顔しないでよ。子供が育つのって簡単じゃないのよ? 毎日飯食わせて寝かして病気したり怪我したら逐一心配してケアして。他に頼れるアテもないのにどうしてできたと思う? あんたがいい子で可愛いからよ。あたしは、凌が思うよりずっと凌のこと考えてんのよ。父親が誰とか知るか馬鹿。あたしとあんたの十八年間の思い出全部侮辱する気? そんなの絶対に許さないわよ」


 ぼたんは顔を背けた。嗚咽を漏らさないように、必死に押し殺すように泣いている。


 柳楽は母を傷つけたことに後悔した。

 怒りや悲しみをぶつけずにはいられなかった。どうしようもなく苦しくて、辛くて。自分が産まれてきたことが罪悪に思えたのだった。


 本当は解っている。母が自分を心から愛していることを。そして自分もまたこれまでの人生、母からの愛を享受し、幸福に生きてきたことを。


「……ごめん。母さん。解ってる。解ってるのに、言った。本当ごめん」

「……遅れてきた反抗期だと思ってあげる。でももう二度と言うのは許さないから」


 ティッシュを二三枚つまみ盛大に鼻を噛む。耳を痛めないだろうかと心配になった。

 ふぅと顔をあげると、スッキリした顔をしている。頬杖を着いて、柳楽を見る。


「でも、あんたが心配してること、分かった。あんた好きな子できたでしょ?」

「なっ……!」

「好きな子できたから、自分も獲猿として攫っちゃうんじゃないかって心配になったんでしょ?」


 くすくすとぼたんは笑う。柳楽の頬が赤く染まる。母親に恋愛相談だなんてこの歳で、恥ずかしいことだと歯噛みする。

 でも、柳楽は逃げる訳には行かなかった。獲猿に目をつけられた女がどんな気持ちでそれを受け入れたのか、母は、本当は己の運命をどう思っていたのか。どうしても知りたかった。


「……で、どうなの。母さんは、獲猿に攫われたんだろ。そんなクソみたいな運命、どうやって呑み込んだんだよ」


 どんな答えが出ても受け入れようと思った。

 自分のルーツに目を背けることはできない。 柳楽凌は橘知里佳を見つけてしまった。本能が選んでしまった。己の雌だと。

 母もまた獲猿に選ばれた女だ。どうやってその運命を飲み込んだか、悲劇を受け入れたのか。それをどうしても知りたかった。


「最初に言っとく。あんた盛大に勘違いしてるわ。あたしは、化物に襲われた可哀想な女なんかじゃない」


 そう言ったときのぼたんの顔は、母のものではない、柳楽が見たことない、美しい女の顔だった。


「あたしは、化物を愛した幸福な女なのよ」

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