第七章 覚悟

第27話🌸「どこで切ってる?」

 扉を開けると、猫がいた。左右色の違う瞳で、こちらを見上げている。

 扉を閉めて猫を抱き上げると、その温かさのせいか、急に涙が込み上げてきた。次いで、呻き声のような音が喉奥から漏れ、嗚咽が溢れる。


 ざりざりとした猫の舌が、頬を二、三度と舐める。その頭を撫でながら、ままならない呼吸のなか思い出したのは、はじめて見た彼の笑顔だった。


 この扉の向こうにいる彼は、確かに。今の自分と同じように、涙を流していた。


  +++


 知里佳が目を覚ますと、見慣れた天井があった。酔いのせいか昨晩ベッドに入った覚えはなかったが、下着姿ではあるものの、きちんと布団まで被っていた。


 起き上がると、頭を槌で打たれているような痛みが、リズムよく刻まれる。喉がカラカラだ。のたのたと台所に行き水を一杯飲むと、ほんの少しだけ生き返るような心地がした。


 洗面所に移動して鏡を見れば、目蓋は腫れているものの、化粧はしっかり落としてあった。これが習慣というものだろうか。床には昨日着ていた服が脱ぎ捨てられている。アルコール臭いそれらを洗濯かごに投げ入れ、顔を洗おうと再び洗面台に向き直った。


 冷たい水に顔を浸しながら、ぼんやりと昨晩のことを思う。


 あのとき、自分は酔っていた。はじめてのアルコールは好きな味だったものの、どうも自分は酔いやすいたちらしい。ふらふらと最上階まで行って、偶然会った柳楽と話したりなんかして。


 そう、酔っていたから。


 だからきっと、その後のことは、酔っ払いが見た幻覚や夢みたいなもので。


「――っ」


 そのはずなのに、思い出してしまう。

 胸元を吸う唇の感触を。口の中まで蹂躙してくる舌の温度を。服越しに押し付けられた物の固さを。


 途端、背筋にぞくりとしたものを覚えた。


 それ以上に、鳩尾を殴られたような、そんな気持ち悪さと痛みを感じ、知里佳は顔を歪める。水をすくっていた手が、小刻みに震えている。いや、手だけではない。全身が震えて、止まらない。


「あ……」


 両手で、自分の身体を思いきり抱き締める。


 ――俺のこと、好きなんだろう?

 ――俺も、おまえのこと愛してやるよ。人間とは違う、化物のやり方で、たっぷりな。


 化け物。


 確かに、彼は自分のことをそう言った。白い毛皮に覆われた身体は、人間のものではなかった。


 攫猿という化け物なのだと。子を産ませるために女を拐い孕ませる化け物なのだと、そう言っていた。


「柳楽さんが……人間、じゃ……ない……?」


 いつもジャスミンティーを買いにきていたのに。夜道で知里佳を怖がらせないようにと、必要以上に気を配ってくれていたのに。みんなで一緒にたこ焼きパーティーもしたのに。


「ぁ……」


 唇に、指で触れる。乱暴に犯された口は、もう昨晩のことなどなかったかのように、いつもと変わりない。

 鏡に写る自分が、ぽろりと涙を溢した。


「もう……わけ、わかんないよぅ……」


 そのまま、しゃがみ込んでぐすぐすと泣き出してしまう。

 昨晩のあれは、知里佳にとって。はじめての口づけだった。


   +++


 一度シャワーを浴びると少しすっきりして、なんとか大学まで行く気力が湧いてきた。


 身支度を整えて外に出る。マンションを外から眺めると、やっぱりあの階段を外側から跳ぶように登ったなんて、夢だったんじゃないかと思えてしまう。


「あ、ちりちゃん。おはよ」


 エントランスから出てきて手を振ったのは、真壁だった。


「おはようございます……今日、一コマ目から?」

「一コマ目は入ってないんだけど、先輩に呼び出されてさ。ちりちゃんは、今朝はコンビニじゃないんだ。授業?」

「うん……」


 コンビニ、という言葉に自然と柳楽の顔が頭に浮かぶ。昨日お喋りをした柳楽は、落ち着いたらまたジャスミンティーを買いに行くと言っていた。それを聞いた時は、すごく嬉しかったはずなのに。


(でも……柳楽さん、引っ越すって言ってたっけ……)


 知里佳を襲った後、ベッドの上で涙を流しながら、柳楽は懺悔した。はじめて見る柳楽の泣き顔は、いつもの神経質さが抜けて、可愛らしさを感じるくらいだった。


 正直、頭がぐちゃぐちゃし過ぎてしまって、あのときのことはハッキリとは覚えていない。

 でも、「近々引っ越す」と言っていたこと、そして――「君のことが好きになりたかった」と。そう言ってくれた言葉は、深く胸に打ち込まれた。


 引っ越すのは、知里佳を襲ってしまったから。部屋まで攫って、犯そうとしたから。


 それは柳楽の本意ではなくて、獲猿という化け物の性質に引っ張られて起こしてしまったことで、それを悔いているから引っ越すと言う。


(そしたら柳楽さん……ジャスミンティー、買いに来られなくなっちゃう……)


 ジャスミンティーを発見した時の、あの嬉しそうな笑顔が思い起こされる。知里佳がニコニコマートにいるせいで、買いにこられなくなってしまって。その上、引っ越しまでしたら、またジャスミンティーが買える店を探し回ることになるのだろうか。


「――ちりちゃん?」


 不意に顔を覗き込まれ、びくりと身体を揺らす。真壁は眉を寄せて「大丈夫?」と訊ねてきた。


「なんか、具合悪い? 顔色悪いし……」

「……友くん」


 ああ、優しい人だなと思う。

 他人のことをよく見ている。そして気づいたことがあれば、声をかけて行動に移せる。

 そんな真壁だから、柳楽だって真壁には親しげに振る舞っていた。


(いいな)


 もし、自分が真壁のようだったら。


 そしたら柳楽は、自分を攫いたいなんて思わず、楽しく過ごすことができたのかもしれない。


(好きに、なってくれなくても、構わないから)


 隣で笑っていてほしかった。あのたこ焼きを食べた日、目を合わせてもらえなかったのは寂しくとも、真壁や渡移、春待と楽しげに話している柳楽を見られたのは嬉しかった。


 じっと自分を見つめ続ける知里佳に、戸惑ったように真壁が身じろぎする。


「なに? どうしたの、先から」

「友くんって……スポーツマン、って感じですよね。ジャージとか、動きやすい服着てることも多いし。今日も」

「まあ、ずっとバスケやってるからね。今日もこれから先輩たちとするし」

「髪も短い……」

「そう? 男としてはふつうくらいだと思うけど……」


 自分の髪をつまみながら、真壁は首を傾げる。

 同じように、知里佳は自分の髪に触れてみた。色の薄い、腰まで伸ばしたロングヘア。癖っ毛で、ゆるくウェーブを描いている。


 小学生の頃、一度切られてしまった髪の毛。また同じことが起こるのが怖くて、短くしたままでいようかとも思った。


 それでも結局、伸ばし続けたのはどうしてだったのだろう。頭の奥の奥で、思い出せそうで思い出せない、もどかしいなにかがちらつく。


 その髪を、柳楽の中の化け物は気に入ったようだった。触りたいと思ったと、そう言った。


 ――だったら。


「友くん、ちょっと教えて欲しいのだけど……」


 真壁を上から下まで見つめて、知里佳は意を決して訊ねた。


「いつも、どこのお店で髪の毛切ってる?」


   +++


 夕方よりも、もう少し日の暮れた時間。


 薄暗くなった道を帰り、知里佳はマンションまで戻ってきた。今日は四コマ連続で授業があったし、そのままあちこち店に寄って疲れたが、「ここで最後」とそのまま、ニコニコマートに足を踏み入れる。


 バイト先で買い物をする感覚に今一つ慣れないまま、知里佳はレジに小銭を出した。会計をしてくれているのは、店長の御領だ。接客用の笑顔を浮かべながら、「ちょうどいただきます」と数字を打ち込んでいる。


 客の切れ目らしく、店内の客は知里佳しかいない。それでも満面の笑みを絶やさない彼女は、やはり接客のプロなのだろう。ここは、彼女の舞台なのだ。

 だがレシートを受けとる際、笑顔は崩さないまま、御領は「橘さん」と声をかけてきた。


「はい?」

「聞き流して下さってもいいですが、一つ」


 品の入った袋に、スプーンを入れながら御領が言う。


「起きた事実も、起きている事実も、人には変えることはできません。しかし起きるであろう事実は、その二つに比べれば不安定で、振れ幅は小さくはあるものの、常に揺らいでいます」


 知里佳は黙って聞いていた。実のところ、御領が急に何を言い出したのか、よく分からなかった。それでも、御領から目はそらさずに、じっと見返す。わけが分からなくとも、何か大切なことを御領は言っている。そう、肌で感じる。


「結末は決まっているかもしれない。でも、その揺らぎを大きくできるのは、確固たる意志と行動です。どちらも、善かれ悪しかれ、自分を信じられる人だけがもつものです」

「……はい」


 知里佳が頷くとほとんど同時に、店の戸が開いた。新たな客に、御領が「いらっしゃいませ!」と明るい声をかける。


 知里佳はぺこりとお辞儀をして、カウンターを離れようとした。


「橘さん」


 ふと、呼び止められて振り返る。御領がふっと、舞台用とは違うほのかな笑顔でこちらを見ていた。


「髪型、似合っていますね」

「……ありがとうございます」


 肩から力が抜ける。自分が緊張していたことに、知里佳ははじめて気がついた。

 部屋に戻り、買ってきた荷物を広げる。

 それから、冷凍庫を開ける。冷凍した米やカット野菜に混ざって、アイスが一つ。あの日出番が来なかった、チョコミント味だ。


 それを取り出して、ニコニコマートで買ってきた袋に加える。


「あれ……?」


 店で買った商品は、いちご味のアイス一つだけ。それなのに御領は何も訊かず、スプーンを二つ入れていた。

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