第10話🐒「春待青」

 新緑の爽やかな空気から、梅雨のはじまりを告げるようなじっとりとした曇り空が増えてきた。


 その日は久しぶりの晴れ間で、予備校に向かうため柳楽がエレベーターで降りていくと、三階のランプが点灯し、エレベーターの扉が開いた。


 ぴょんと軽やかな足取りで女の子が乗ってきた。

 背は低めだ。長く真っ黒な髪を高い位置でポニーテールに結んでいる。まだ春だと言うのに肩がむき出しになったノースリーブのワンピースを着ている。見ているだけで寒そうだ。柳楽は少女から目を逸らす。なんだかこの子が入ってきてからエレベーターの室内温度が急激に下がったような。


 くるりと少女は振り向く。ガラス玉のように光をよく反射する目だ。肌の色もとても白い。というより、この子はもしかして。

 少女はふっと口角を上げる。


「女を攫う猿。はじめて見ました。興味深いのですよ。もう白羽の矢は立てたのですか?」

「なっ!」


 急にそんなことを言うから柳楽は戸惑い、思わず大きな声を出す。その途端に一階のランプが付き、扉が開く。


 外から初夏の少しぬるめの風が吹き込んできた。エレベーター内が異常に冷えていたのだ。少女が入ってきた数秒の間に。


「君は、何? 人じゃないってことでいい? 雪女とか、そんな感じですか?」

 柳楽の当てずっぽうな言葉を受けて、少女はぱちぱちと手を叩く。

「中々やるではないですか。せっかくなので街で見つけた化け物同士、親交を深めましょう」


 少女は柳楽の太い腕をぐいと掴む。服越しからも冷気が感じられるようなそんな冷たい身体だ。


「嫌です。俺は今から予備校に行くんで。そんなことを話している時間はありません」

「おや、そんなことを言って。青はお前に興味がありますよ。お前も気になっているのでしょう? 化け物のこと」


 柳楽は腕に着けた時計をちらりと見た。いつも予備校には余裕を持って十五分以上前には着いている。コンビニで買い物を控えればなんとかギリギリ授業に間に合うだろうか。


「……道すがら、でもいいなら。概要だけでも」

「いいですよ。青は人間の今風に言うならニートというやつですからね。時間はたっぷりあるのですよ」


 エントランスの自動ドアが開き、外に出た。朝日にガラス玉のような目がきらきらと輝いた。


   +++


 駅までの道を二人並び歩く。少女は名前を『春待はるまち あお』と名乗った。曰く、『真実の愛』を求めて山から降りてきた雪女らしい。獲猿と似たようなものですとにこやかに言われたが、どうにも仲間意識などを持たれることに抵抗があった。


 言語化は難しいが、柳楽は春待に対して警戒心を強く抱いていることに気づいた。出会ったばかりの、自分の半分くらいの大きさしかない少女なのに。それは他の女性に対して抱く「傷つけてしまうのではないだろうか」という恐怖感とは別種類のものだった。


 駅に着く。春待がじっと向ける視線の先には、省スペースのたい焼き屋があった。


「あれ、前から気になっているのですよ。何故焼き饅頭に魚の形をさせているのです?」


 この子は本当に人間社会に疎いんだな。ちゃんと家賃納めてるんだろうか、と柳楽は心配になる。


「その方がキャッチーで売れると思ったからだろ。食べたいなら奢ってやるけど。二百円くらいだし」


 春待の目がきらりと輝いた。たい焼き屋に並び、わくわくとメニューを見るその姿は年相応か、もっと幼い普通の女の子のように見える。


「青はカスタードクリームというものが良いですね。白くて冷たそうです。さぁ奢るのですよゴリラ。いい女に食事を奢るのは男の宿命だとドラマで学びました」

 柳楽はやれやれと、ため息をつきながら店主に注文をする。

「すみません、たい焼きふたつ。粒あんとカスタード。カスタードは冷めてるやつで」


 小銭とたい焼きを交換する。さっくりと薄く焼かれた皮の中に甘い粒あんがみっしりと入っていて美味い。ジャスミンティーで口の中をスッキリさせたいところだが、買い忘れたことに気づいた。今日はあの店員の顔を見ていない。


「……あまり冷たくないですねぇ。でもこの甘さは合格なのですよ」

 春待は、はじめてのたい焼きをサクサクと楽しんでいる。チラリと腕時計を見る。ゆっくり食べ終わるのを待つ時間はない。


「……で? 君は、なんなの? 親交を深めたいって。悪いけど俺は浪人生なもので、あまりプライベートに割く時間がないんですけど」

「ろうにんせいとはなんです? ドラマや映画で聞いたことがないです」


 春待はきょとんとした顔で柳楽の顔を見る。口の端にカスタードクリームが着いているのを指摘すると、ぺろりと白い肌に似合わぬ赤い舌で舐めとった。何となく馬鹿にされているような表情に見えたが、自分の勘違いだと思い込む。


「……普通に生きてきて浪人生を知らないってこと、ある? 君、同じ歳くらいだけど高校とか行ってなかったの?」

「どうして妖怪が人間の『高校』になど行くのです? 青は山生まれの山育ちなのですよ」

「……なるほど。君は生まれつき"そう"なんだね。俺はずっと自分のこと人間だと思ってたから」


 違和感の正体が見えた気がした。柳楽は人間の母を持ち人間社会で生まれ育った。自分が化け物だと言われても未だに受け入れることが出来ない。だが、目の前にいる少女は生まれながらの化け物なのだ。そして、柳楽のこともそう思って接している。それがどうにも受け入れ難かった。自分はこれからも人間でいたいのだから。


 春待は柳楽の発言を聞くと、きょとんと首を傾げる。


「自分を人間だと? おかしなゴリラですね。こんなにも化け物で、今も『獲物』の気配を探り続けながら、そんなことを言うなんて」

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