第6話🐒「今日は良い日だった(はずだった)」

 もう帰宅ラッシュから大分時間が経ち、バイト先から最寄り駅まで座れる程度に電車は空いていた。駅に降り立ち、ぐっと伸びをする。


 今日は良い日だった。柳楽にとってほんの少し。

 予備校にも慣れてきた、少し前にやった模試の結果が帰ってきたが、判定は充分合格圏内だった。

 バイト先の中華料理屋では、まかないが柳楽の好物の油淋鶏だった。おまけに、急な団体客のキャンセルがあったらしく「食材腐らせるのも勿体ない」そう言って店長が大量の唐揚げを土産に持たせてくれた。


 最寄り駅に着いたとき、時刻は九時半ば。予備校、バイトの帰りのタイミングとしては割と早いほうだ。

 腕の中で唐揚げの入った紙袋が、ほこほこと温かい。早く帰宅して、ジャスミンティーを飲みながら夜食にしよう。この店の唐揚げは塩気が強いが、肉にしっかりと味が染み込んでいて、油で揚げられた皮の食感はばりばりとしていてとても美味い。 明日は予備校もバイトも休みだ。悲しき浪人生としては家庭学習からは逃れられないが、せめて今晩くらいは少し羽を伸ばしてもいいだろう。


 そう思う気持ちは、マンションに向かって歩きはじめて、すぐにしゅるしゅると音を立ててしぼむことになった。


 柳楽の前方三十メートル辺りを、女性が一人で歩いていた。小柄な女性だ。母と同じくらいかもしれない。背丈はおそらく柳楽の胸ほどしかない。色素が薄くてふわふわとした長い髪の毛が夜風に吹かれてふわっとたなびいた。


 マンションから駅までは、不動産掲載サイトでは「歩いて一〇分」になっている。実感としては、「日頃から運動が習慣になっている体格が平均日本人より微妙に外れている男が早歩きで歩いて一〇分」といったところだろうか。女性だと二〇分くらいかかるかもしれない。


 道は子供たちの通学路にもなっているので、きちんと歩道と車道が区切られているが、照明の数は多いとは言えず、夜も八時を過ぎると一気に交通量や人通りが少なくなる。そんな道を、女性が、柳楽の少し先を歩いている。


「……早く帰ろうと思ったのに……」

 手の中の熱が急速に冷めたような気がした。少なくともこの唐揚げが温いうちに帰宅することはできないだろうとため息をついた。


 夜道を後ろから誰かが歩いてくる。それは屈強な体格の柳楽にとっては何も感じることはないことだが、小柄な女性にとってはそのこと自体が凄まじい恐怖になるものだとは、理解している。誤解を招き警察の厄介になるのなど耐えられない。


 柳楽は歩幅を狭め、ゆっくりと、彼女に絶対に恐怖を与えない距離感を保とうと心に誓い歩き出した。マンションへの道は分かれ道も多い。同じところに帰るわけでもなし。適当なところで道を違え、離れられるだろうと気楽に考えていた。


 五分程歩いた。まだまだマンションへのゴールは遠い。女性はまだ柳楽の前を歩き続けている。三つほど交差点を過ぎたが、同じ角を曲がり続けている。勘弁してくれよ。俺が後をつけているみたいじゃないか。俺はただ帰宅して唐揚げを食べたいだけなのに。心の中でぶちぶちと文句を言う。


 一瞬チラリと女性が後ろを向いた気がした。街灯の下に写った柳楽のシルエットは、中々に不気味なものなのだろうとは想像に易い。心做しか歩調が早まったように感じるのは気のせいだろうか。もういっそのこと開き直って時間を潰すか、とガードレールに体重をかける。冷めた唐揚げはトースターで温め直せば良い。それだけだ。


 スマホを開くと、母からメッセージが届いていた。黒い肌に白い毛並みの柳楽が獲猿に変化した姿によく似た雪男が笑顔でVサインをする画像が貼り付けられていた。

「凌にそっくりなスタンプ見つけちゃった♡ かわいいでしょ♪」

 イラッとして「猿ハラやめろこのババア」と一言だけメッセージを返した。


 メッセージの返信や、気になるニュースをいくつかチェックするとすぐに五分くらいが過ぎた。そろそろ気兼ねなく歩いて帰れるだろう。柳楽はそう思いスマホを閉じて歩きはじめた。


 はじめからこうしていれば良かったのだ。女の子に要らぬ恐怖を与えることもなく、自分もノンストレスに帰宅することができる。唐揚げが冷めるのだけは避け難いことであるが。そう思いながら歩を進めた。


 しかし、そう上手くはいかないものである。時間を置き視界から消えることができて安心していたのか、柳楽が歩調をいつもの調子に戻して歩くと、いともあっさりと女性に追いついてしまった。


「……なんで、こうも同じ方向なんだよ……」

 一度距離を置いて安心したところでまた姿を現すなんて、ただ恐怖を煽っただけじゃないか。馬鹿か俺は、それとも不運なだけなのか、とため息をつく。

 いっそ抜かして歩き去ってしまえば気楽になるとは分かっているのだが、そのために距離を詰めるということが彼女に恐怖を与えることは容易に想像がつく。柳楽の人格や人間性などは問題ではない。夜道に背後から男が歩いてくる、その事実が問題なのだ。


 柳楽の胸が泥で濁る。自分に流れる父親の血は、母を攫った化け物猿だ。その事実から目を背けることはできない。それでも、柳楽凌は人間として生きていきたい。女性に無駄に恐怖を与えることなんてしたくないし、誤解から警察を呼ばれるのもごめんである。はぁと深く息を吐き、またゆっくりと歩調をゆるやかに変えた。


 また少し歩いた。彼女との距離は狭まることもなく、広がることもなくつかず離れずを保っている。あと七分くらいでマンションに着く。


 柳楽はすっかり疲れ果てていた。肉体的にでは無く、精神的にだ。早く帰りたい。早く帰って風呂に入ってジャスミンティーを飲みながらゆっくり唐揚げを食べたい……。


 晴れない気持ちのまま歩いていると、三叉路に辿り着いた。この道は、左右どちらの道を歩いても最終的にはマンションにたどり着く。やっとここで別れられると心が晴れやかになる。


 女性は右に曲がった。よし、ならば俺は左だと柳楽は軽やかに足を踏み出した。少し遠回りになるが構わない。誰も前に居ない、自分のペースで歩める道は快適だ。唐揚げの熱はまだじんわりと手に暖かい。まだこの熱が残っているうちに、と柳楽は駆け出した。


 遠回りになる道を足の早い男が走り、近道を足の遅い女が歩くとどういう事になるだろうか?


 そのタイミングは最悪だった。二人は、ほぼ同時に道の合流地点に着くことになった。ほぼ同時、しかし柳楽の方がほんの少しだけ早かった。


 彼女の眼前に、柳楽はぬっと立ちふさがるような形で出現した。


 少し走ったおかげで息がハァハァと上がって汗もかいている。一日活動したせいで髪も乱れている。これは誤解されても仕方ない状況だ。

 後ろをずっと付きまとっていた男が、先回りして、待ち伏せをして、そんなの目的はひとつに決まっている。


 彼女と目があった。驚いたように目を見開いている。美人だ。左目の下の泣きぼくろが色っぽい、とどこか冷静な頭で考えてしまった。ふわりとした色素の薄い髪の毛が夜風に広がる。


 どこかで見かけたことがある気がする。どこだっただろうか、分からない。叫ばれるか、警察を呼ばれるだろうか、そうなる前に口を塞いでしまえば、担ぎあげて攫って人のいないところまで連れていってしまえば、そうして、犯してしまえば、俺の子を孕ませてしまえば……。


 混乱と共に思考が良からぬ方向へと回転する。やめろ、本能に流されるんじゃない。俺は、俺は化物じゃない、俺は、俺は、


「……ジャスミンさん⁉」

「はぁ?」


 思いがけぬ単語が思考を現実に引き戻した。

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