ピリオド3 ・ 1983年 プラス20 〜 始まりから二十年後・1
ピリオド3 ・ 1983年 プラス20 〜 始まりから二十年後
1 三月九日「水曜日」
「それでは、わたしもこれから出掛けますから、ご自分の庭だと思って自由になさってください。先日も申しましたが、わたしら夫婦は今日から数日、留守にしますので……」
だから用が済んだら、そのまま帰ってしまって構わないとまで言ってくれた。
岩倉氏はわざわざ出発を遅らせ、稔の到着を待っていてくれたのだ。
雪山にでも向かうのか? というくらいの厚着姿にニット帽を目深に被って、彼はそれだけ告げて門の外へと出ていった。
三月の平均気温と比較したわけではないが、暖かいという日では決してない。きっと十度にも届いていないだろう気温も、午後三時近くになってさらに下がってきたようだ。
それでも二十年前のあの日に比べれば、そこそこ天国ってくらいには感じられる。
あの時、林が消え失せている事実を知って、一か八かでインターフォンを押した。
なかなか応答が返らない中、稔が再びチャイムを押そうとした時だった。
「あの……何か?」
インターフォンから不安そうな声が返り、続いてため息のような息遣いが響いた。
稔は慌てて名を名乗り、さらに必死の声を上げたのだった。
「突然、本当に申し訳ありません! 実はお願いしたいことがありまして……少し、お話を聞いていただけないでしょうか?」
そう告げた後、そこからの返事は驚くくらいに早かった。
「それは、今から、ですか?」
「あ……いえ、今からでもけっこうですし、日を改めてでも、こちらはどちらでも……」
「それでは、明日ではいかがでしょう? 明日の午後一時に、お待ちしていますから」
相手はそう言ってから、さっさとインターフォンを切ってしまった。稔はいきなり呆気に取られ、そのまましばらく立ち尽くすのだ。
突然、見知らぬ男がインターフォンを押して、少し話がしたいと言って来た。
こんな時普通……あんな返事をするものなのか? そんなふうにも思いつつ、
――やっぱり、ここまでの大金持ちとなると違うんだろうか……。
などと勝手に結論付けて、やっとその場を後にした。そうしてその翌日、稔は滅多に着ない背広を着込んでおんなじ場所に立ったのだ。
きっとどこかに、防犯カメラが付いている。
門の前に立っているのが何者であれ、その姿を監視できるようになっているはずだ。
約束の時間ぴったりに呼び鈴を鳴らし、手にしている紙袋の中には高級メロン二つが収まっている。きっとそんな姿を確認し、約束の主だと判断したのだろう。呼び鈴を鳴らしてふた呼吸ほどで、馬車でも飛び出してきそうに思える大きな門がガタンと鳴った。
驚いて半歩飛び退くと、鋼と木材を組み合わせた左右の門扉が開き始める。そこから目に飛び込んできた光景は、映像でしかお目にかかったことがないものだ。
土地の広さからすれば、こぢんまりという印象もないではない。
それでもそうそう目にはできない大豪邸で、門から向かって右手奥には、林だった頃を思い出させる草木が生い茂っている。そこから家庭菜園には広すぎる畑が続いて、左手に広がる庭園との間を舗装された道が玄関扉まで伸びていた。
ここからが本当の勝負だ……と心に念じ、稔は重厚感溢れる扉の前に立ったのだ。
するとここでも同様だった。
「どうぞ、鍵は開いてますから……」
そんな声が不意に聞こえ、彼は慌てて声のした方に目を向けた。すると扉の上部からビデオカメラがこちらを向いて、その脇にスピーカーらしきものが付いていた。
稔がゆっくり扉を開いていくと、
――どこからどこまでが、玄関なんだよ?
ちょっとしたホテルのロビーのような空間があり、そんな中、岩倉氏が音も立てずに現れるのだ。それから五十畳はあろうかというリビングへ通され、稔は慌てて手みやげを差し出しながら突然の来訪を必死に詫びる。
そうしていよいよ本題を切り出そうとした時だった。
まるで降って湧いたようにいきなり尿意が押し寄せた。
天気もよく、二月とは思えないくらいのポカポカ陽気だってのに、それはあまりに強烈過ぎるものなのだ。さらに何より、こんな状態のままでは落ち着いて話なんかできそうもない。だから稔は思い切って声にした。
「いきなりですみません、先に、お手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか?」
するとその途端、能面のようだった岩倉氏の顔付きが一気に変わった。
いきなり眉間にシワが寄り、口元に力が入って唇がへの字に歪む。と同時に下向き加減の顔がビクンと動き、視線が右手にスッと流れた。
「驚いた」というのとも少し違う……何かを我慢でもしている印象で、それでもあっという間に元の表情に戻ってしまった。
――いきなりトイレを貸せってのは、いくらなんでもまずかったかな……?
稔はそんな後悔を思いつつ、慌てて教えてもらったトイレに向かった。
やはりトイレの方も広々として、なんと小用便器が三つも並び、それぞれ胸から上辺りが大きな出窓になっている。もちろん彼はそんな窓には目もくれず、ただただ便器に向けてのことに集中した。
そうしてホッとひと息付いて、なんの気なしに窓の外へと目を向けたのだ。すると驚きの光景が目に飛び込んできて、顔を近付けようと足を大きく踏み出そうとする。と同時に下半身に何かが当たり、途端に便器からの音が消え失せた。
――いかん!
起きている事実をすぐ悟り、稔は慌てて便器に視線を戻して本来の作業に手中する。
なんとか小水を出し切り、飛び散ったところを慌ててトイレットペーパーで拭き取った。それから今一度、小便器のないところから窓の外を覗き込む。
目の前に広がる庭園の中、やはりその中央辺りにそれはあった。
――あれが、いったいなんだって言うんだ?
そんな思いで見つめた岩が、二十年経って再び視線の先に現れたのだ。直径が三メートルは優にあり、三十センチくらいの高さで削り取られたようになっている。
紛れもなく、あの岩だった。
広場のような空間もそのままで、元からある自然を生かしつつこの庭園を造ったのだろう。そんな想像はともかくとして、一番不安だったところがこれで一気に解消となった。
実際に、その後は呆気ないくらいに一事が万事順調に進んだ。
「二十年前と同じ三月九日に、事件のあった場所、すなわちお宅の庭に、お邪魔させていただきたいのですが……」
二十年前、自宅の庭で殺人事件が起きていた。そんな事実を今さら告げられ、イヤな顔の一つくらい見せたって普通のはずだ。
顔の半分近くを覆っているヒゲと、かなり縁の太いべっ甲メガネ――ご丁寧にレンズが薄茶色――のせいで表情の変化は分かりにくい。それでも彼の言葉には、嫌がる感じなどまったくなかった。結局まるで苦労のないまま、稔の申し出を受け入れてくれる。さらに帰り際、岩倉氏はこんなことまで言ってくれた。
「その日、妻は旅行でいませんし、わたしも午前中から出かけて数日は戻りませんので、門扉は開けっ放しにしておきます。それから、ちょうどおっしゃっていた辺りに、小さいですが離れがあるんです。そこは鍵など掛けていませんし、もしよかったら自由に使ってください。三月九日ならまだまだ寒い。それにもし、雨でも降っていればなお大変です。どうぞ用事がお済みになるまで、そこを好きにお使いください……」
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