第2話

春が訪れた。

それはルナにとって、初めての地上での季節だった。


夜だけでなく、昼も彼の隣にいられる。

小さなことが、ひとつひとつ新しく、愛おしかった。


土の匂い。草の感触。雲の動き。鳥の声。

女神だったころは気づかなかった世界が、目の前に広がっていた。


「ルナ、これが桜っていうんだよ」


ハルトが指差したのは、満開の花をつけた大きな木だった。

薄紅色の花びらが、風に乗って舞っている。


「こんなに儚いのに、こんなに綺麗なんて……」


ルナは、指先で一枚の花びらを受け止めた。

どこか、自分に似ていると思った。


「また来年も咲くよ。咲き方は少し違っても、ちゃんと春になると」


その言葉に、彼女は微笑んだ。


「じゃあ、私も、来年はもっと綺麗に笑えるようになるわ」


ふたりは並んで桜を見上げた。

月が照らす夜も、陽が射す昼も、もう怖くなかった。


過去に背を向けたわけじゃない。

神の力を失った悲しみも、喪失も、すべて心の奥に残っている。

けれど、それ以上に、ハルトの隣で生きることのほうが、ずっと重く、ずっとあたたかかった。


それでも、夜になるとルナは時折、空を見上げる。


彼女がかつていた場所。

今も変わらずそこに浮かぶ、静かな月。


「ありがとう。私を許してくれて」


誰に向けた言葉かは、自分でもわからなかった。


ただ、あの光が今も変わらずに世界を照らしていることが、嬉しかった。


「行こう、ルナ」


後ろからハルトが手を差し伸べる。


「うん」


彼女はその手を握る。

もう、冷たくない手。命を持つ手。愛を選んだ手。


ふたりの影が、春の陽に溶けていく。

空は高く、風はやわらかく、季節は確かに進んでいた。


そして、ふたりの物語もまた。


ゆっくりと、新しい章へと歩き出していた。

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