第6話【蛍と溌春】







晴明せいめいさま」






 書物を読んでいた溌春はつはるは顔を上げた。

「どうしましたか」

「蝋が少なくなっております。足しましょうか?」

 心細げに揺れている火を見てから、溌春は書を閉じた。


「いえ。今日はここまでにしましょう」


 蛍は頷き、雨戸を閉めに行った。溌春も立ち上がる。

 反対側の雨戸を閉めると、ぴたりと閉じたところで蛍と目が合い、彼女はくすくすと笑った。

 それから、溌春の手を取ると、奥の寝床へと二人で歩いていく。

 並べられた布団に潜り込む。


ほたるどの。これは相談なのですが……今、都では不審な出来事が続いているようです。朝廷が調査に乗り出しているようですが、私も一度、都を自分の目で見て回ろうと思います。そんなには時間は掛けませんが、一週間ほどは無幻京むげんきょうの各地を回ります。

 それで……ここも留守にしなくてはいけないので、余程不在が長くなった時は、安全のために蛍殿にはご実家の八坂やさかに一度戻られた方が良いと思っています」


「そうなるでしょうか?」

「今はまだ分かりません。これで騒ぎは鎮まるかもしれませんし……御所の陰陽師たちが動いています。彼らが全てを対処してくれる可能性もある」

「昼間にいらっしゃった方はその報せを持ってこられたのですね」

「そうです」


「家出同然でこちらに来ている私が屋敷に戻ったら父が心配するので、戻るのは嫌ですと申し上げたら?」


 溌春はつはるは目を瞬かせてから、小さく笑んだ。


「私からお父上に直接説明しましょう。事情を話せばきっと分かっていただける」

「父は晴明さまを信頼しておられるのでそうでしょうが、私が屋敷に戻りたくないと言ったら」


「その時は……ここは護国結界の外ですから。守護者のいる無幻京市街とは危険の有り様が全く違います。姫にはご迷惑でしょうが、私と一緒に都をあちこち徘徊していただかなければなりません」


 蛍の瞳が輝いて、無理にも実家に戻ってもらうとか、じゃあここで一人で留守番だなどと言われなかったことに、彼女は嬉しそうに笑った。


「分かりました。では、そうなった時は実家に戻ります。でも帰りたいからではありません。そうした方が私のことで晴明さまを煩わせないで済む、そう思うからです」


 蛍が手を伸ばしてきた。柔らかい彼女の手を、溌春が握りしめる。


「昼間にいらっしゃった方は安倍家の方なのですね。私が思わずいつもの癖で『晴明様』と呼んでしまった時、あの方もこちらを振り返られました」


「はい。安倍の冷泉流の六男、瑞貴みずき殿と申されます。うろ覚えですが、名門の冷泉家の若い弟に凄まじい能力者がいると大雅たいがから聞いたことがある。恐らくあの方のことだったのでしょう。何でも生まれながらの【天眼てんがん】を持ち、最年少で【安倍晴明あべのせいめい】の称号を帝から頂いたとか」


「まあ……そんなに凄い方とは知らず、私、昨日の残り飯でお土産を作ってしまいました」


 溌春が軽く声を出して笑った。

「どうかお気になさらず。あの方は大層なもてなしを期待してここに来たわけではありません。それに、握り飯は一晩寝かせた方が米がしっかりして美味しいものですよ」


 一瞬蛍は目を丸くしたが、そんな風に溌春が言うと、彼の手を握り返してきた。

「晴明様が気になさるのなら、此度のことは陰陽に関わることなのでしょう」

「まだ、詳しいことは分かりませんが。それを調べに行きます」


「今はここにいてよろしいですか?」


「大丈夫です。ここは結界を張らずとも、古来より守りの強い場所なのです。危険があれば、私には分かります。そうでないなら貴方を一人ここへ置いてどこかに行ったりしません」

「分かりました。私はここにおりますから、どうか何のお気遣いなさいませんように。晴明せいめい様はご自分が無理なさらぬようにして下さい」


「ありがとう。でも本当に大丈夫ですから」


「もし、八坂の実家に戻ることになっても、私のこと、忘れずに迎えに来てくださいね」


 蛍は確認するように、付け足した。

 溌春が静かに微笑んでくれた。


「月の良い、晴れた日に。必ずすぐ迎えに参ります。蛍どのにお約束しましょう」


「晴明様に約束していただいたなら、安心です」

 蛍は目を閉じた。

「今日はこのまま、晴明様の手を握って眠ってもいいですか?」


 彼女の手を、握りしめる。

 温かい。


 この世界で一番大切な手だ。


 溌春はそう思った。





「貴方がそれでいいのなら」





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