第8話 黒騎士、ギルドを震わせる
――その日、レギオン・ギルド本部は、平穏な午後を迎えていた。
冒険者たちは報酬の換金を済ませ、酒を片手に笑い合い、職員たちは忙しなく書類を整理している。
鉄と油の匂いに包まれた、いつもの喧噪。
だが、その日常を――異音が裂いた。
「……いまの、なに?」
カウンター近くの職員が首をかしげた瞬間、床がわずかに震えた。
金属が軋み、低く唸る。
そして、淡い光が床の中央に滲み始める。
青白い線が走り、幾何学の文様を刻むように広がっていった。
「お、おい……これ、魔法陣か!?」
「誰が展開してるんだ!? ギルド内での魔法は禁止だぞ!」
「違う……こんなの、見たことがねぇ!」
光が強くなる。
紙が宙に舞い、照明が明滅する。
空気が圧縮され、床が低く唸った。
「きゃあっ――!」
職員の少女が悲鳴を上げ、机の下に身を伏せた。
そして――。
――ズゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!
爆光。
風圧。
すべての音が一瞬でかき消される。
やがて光が収束したとき、そこに立っていたのは――漆黒の影。
黒装甲を纏う騎士。
紅の瞳が薄闇の中で光り、背には黒翼の紋章が浮かび上がる。
その足元には、縄で縛られた三人の男。
そして、その後ろには三人の同行者――
セドリックとカイル、そしてフォルネウスの受付嬢リリスの姿があった。
「ひゃ、ひゃぁ……な、なに今の……!? ど、どうなってるのっ……!」
リリスは息を荒げ、震える指で髪を押さえた。
初めて体験する転移に頭が追いつかない。
セドリックが冷静に辺りを見回す。
「無事だな、リリス。」
「う、うん……たぶん……! でも、ここ……どこ……?」
「レギオン・ギルド本部だ。」
カイルが短く答えた。
「“借り”を返しに来ただけさ。」
彼らの言葉に周囲の冒険者たちはざわめく。
「な、なんだこいつら……どっから現れた!?」
「今の光……まさか、転移か? いや、そんな距離を――」
「わからねぇ……でも、ヤバい……ただ者じゃねぇぞ!」
空気が凍りつく。
誰もが、ただ黒騎士の姿に圧倒されていた。
アスモデウスは一歩、前に進む。
足音が、地を叩くたびに響く。
その姿は静かで、恐ろしく均整が取れていた。
「――ッ!?」
次の瞬間、縄で縛られた三人の男が床に叩きつけられた。
――ドンッ!!
重い音が、ホール全体に反響する。
「ひぃっ!」と誰かが悲鳴を上げた。
リリスは青ざめたまま、それでも勇気を振り絞る。
「アスモデウス様……ま、待って……ここ、敵地よ……!」
「わかっている。」
アスモデウスは短く答えた。
その声は金属を擦るように低く、冷たい。
紅の瞳がギルド全体を一瞥する。
「――こいつらは、貴様らの部下だ。
フォルネウスで暴れ、登録を妨害した。」
その言葉に、レギオンの冒険者たちがざわめいた。
「フォルネウス……? あのボロギルドの……?」
「つまり、こいつらが……!」
アスモデウスは短く告げた。
「返す。」
それだけだった。
怒号も威圧もない。だが、その“静けさ”こそが圧倒的だった。
誰もが動けない。
冒険者たちは呼吸を潜め、ただその場に立ち尽くす。
リリスは拳を握り、かすかに震えながらも言葉を絞り出した。
「……お願いです。彼らがしたことは、私たちフォルネウスが――」
「喋るな、リリス。」
アスモデウスが制した。
「今は、言葉より結果だ。」
その瞬間、奥の鉄扉が軋んだ。
重い金属の音が、静寂を切り裂く。
金属の扉が重く開く。
その音だけで、ホール全体の喧噪が一瞬で消えた。
――ギルド奥から現れたのは、一人の巨漢だった。
灰色の外套を羽織り、胸には白銀の鷲の紋章。
その足取りは重く、一歩ごとに空気が沈んでいく。
《ヴァルド=グレイ=バーンハルト》。
《レギオン・ギルド》を統べる男にして、“灰鷲の帝拳”と呼ばれた伝説の闘士。
その眼光は鋼のように冷たく、すべてを見透かすような威圧を放っていた。
「……誰だ、貴様は。」
低く響く声が、空気を震わせる。
アスモデウスは一歩も引かず、紅の瞳をわずかに細めた。
「貴様が――ギルマスか。」
「そうだ。で、貴様は何者だ。」
「登録希望者だ。」
ホールが一瞬で静まり返る。
そして次の瞬間、ざわめきが爆発した。
「……登録?」
「おいおい、さっきうちの幹部をぶっ飛ばした奴がか?」
「どの口が言ってんだよ!」
「バカか、正気じゃねぇ!」
冒険者たちの嘲笑が渦巻く。
だが、アスモデウスは微動だにしない。
「“レギオン・ギルド”に――ライセンス登録を希望する。」
紅の瞳が淡く光を帯びる。
冗談ではない。その声には、冷徹な確信があった。
ヴァルドの眉がぴくりと動く。
「……面白い冗談だ。だが、ここは見世物小屋ではない。」
「冗談ではない。必要だからだ。」
「必要? ……何のためにだ。」
「戦場を知りたい。強者のいる場所に立てば、見えるものもある。」
その声には、虚飾も感情もなかった。
ただ純粋な“探求”の響きだけが宿っていた。
ヴァルドは短く息を吐く。
「……なるほどな。力を試したい、か。」
「そうだ。」
巨漢のギルマスターは、唇の端をゆっくりと持ち上げた。
「いいだろう。だが――うちの門を叩く者は誰であれ、試験を受けてもらう。
“力”で語れ。それがレギオンの流儀だ。」
「構わない。」
ホールが静まり返る。
その場の全員が、息を潜めて成り行きを見守っていた。
後方で、リリスが真っ青な顔で呟いた。
「ど、どうして……レギオンに登録なんて……」
声が震える。彼女には理由が分からなかった。
アスモデウスが何を考えているのか、見当もつかない。
セドリックが隣で小さく笑った。
「大丈夫だ。あれは“全部計算してる”ときの顔だ。」
カイルもうなずく。
「アスモデウスのこと、信じて見てろ。絶対、何か狙いがある。」
ヴァルド=グレイ=バーンハルトは、重々しく椅子に腰を下ろした。
その瞳には、わずかに試すような光が宿っている。
「……いいだろう。ただし、規定に従ってもらう。
――まずは、魔力量の測定からだ。」
その言葉と同時に、受付嬢が震える手で銀の台座を運んできた。
中央に据えられたのは、直径三十センチほどの透明な水晶球。
内部には微細な魔力粒子が漂い、淡く青白い光を放っている。
「こちらに、手を……」
受付嬢の声は緊張に震えていた。
アスモデウスは無言で一歩前へ出る。
鎧の表面を走る光のラインがわずかに脈動した――だが、彼はすぐには手を伸ばさなかった。
(……今のままでは、正確な測定は不可能だ。)
低く、短く息を吐く。
装甲の内部――魔機炉が静かに唸りを上げた。
《マナ吸収モード、起動。》
セリーヌのシステムボイスが響く。
その瞬間、空気が変わった。
――静寂。
ホールの中の灯がわずかに揺らぎ、周囲の冒険者たちが顔を上げる。
「……おい、今、風が……?」
「なんだ……急に寒気が……?」
大気が震える。
アスモデウスの周囲を中心に、目に見えぬ“流れ”が渦を巻いた。
空気中のマナが吸い上げられ、まるで風が逆流するように彼の装甲へと収束していく。
青白い霧が彼の周囲を取り巻き、
髪も装甲も揺らさぬまま、ただ“世界の魔力”が一点に集まっていく。
「な、なんだこの圧……!?」
「呼吸が……重い……!」
冒険者たちが一斉に身を引いた。
周囲の光が揺らぎ、空気が低く唸る。
アスモデウスの紅い瞳が、淡く光を放った。
(……これでいい。大気中のマナ、臨界近くまで吸収完了。
――変換開始。)
内部炉心で青白い火花が走る。
吸収したマナが、圧縮され、精製され、
“純粋魔力”へと転換されていく。
セリーヌの声が続く。
『魔力転換率、上昇中――現在、平均人間値の六百倍。
限界を超過しています。』
(構わない。人の枠では測れぬことを示す。)
その瞬間――空気が止まった。
風が消え、音が消える。
まるでこの空間だけ、時の流れが凍ったかのようだった。
そして、静かに右手を伸ばす。
――過去の記憶が蘇る。
“エルダの翼”で受けた測定。
その時、数値はゼロ。登録を拒否された屈辱。
(今は違う。
掌が水晶に触れた。
――バキィィィィィィィィィィンッ!!!
閃光。
碧色の稲妻が走り、空気が爆ぜた。
水晶球は音を立てて砕け散り、破片が宙を舞う。
その一つ一つが光の粒となって消滅していった。
「なっ……!」
「壊れた!? 一瞬で!?」
受付嬢が小さな悲鳴を漏らし、後ずさる。
ヴァルドは目を細め、低く呟いた。
「……故障か。予備を持て。」
慌ただしく新しい水晶が運ばれる。
アスモデウスは無言で再び手をかざした。
――パリィィィィィィィンッ!!
二つ目も、爆ぜた。
光の奔流がギルドホールを満たし、天井のランプが明滅する。
床が軋み、冒険者たちが本能的に距離を取る。
「また……壊れた……?」
「嘘だろ、あれ、神教国製の測定水晶だぞ!?
神殿の祝福術式入りだ!?」
「そんな……神聖加工された水晶が……粉々に……?」
冒険者たちが恐怖と困惑にざわめく。
“神教国製”とはすなわち、神の理を宿す測定装置――
本来、どんな膨大な魔力量にも対応できるはずの、
聖具に等しい代物だ。
リリスは青ざめ、唇を押さえる。
「な、なんで……ありえない……。あれ、壊れるなんて……」
ヴァルドは顎に手を当てたまま、低く言った。
「……三つ目を持て。」
職員たちは怯えながらも最後の測定球を設置する。
神教国の紋章が刻まれた水晶――それが最後のひとつだった。
アスモデウスはわずかに息を吐き、指先を置く。
――ガシャァァァァァァァァァンッ!!!
光が爆ぜ、視界が白に染まる。
金属音とともに台座が吹き飛び、
水晶の破片が粉塵となって宙に舞った。
ランプが落ち、ガラス片が雨のように降る。
誰もが言葉を失い、ただ立ち尽くす。
ヴァルドが低く呟く。
「……魔力量測定不能。」
受付嬢の手が震えている。
「そ、そんな……! 神教国の聖測器が、三度も……!」
アスモデウスは一歩進み出て、低く言った。
「数値など、意味を持たない。
測れぬなら――実戦で確かめればいい。」
紅い瞳がわずかに光る。
ヴァルドは沈黙し、やがて静かに笑った。
「……言うな。ならば、見せてもらおうじゃないか。
“実戦”で――お前の真価を。」
重い扉が開く。
その先に広がるのは、試験会場――鉄と石でできた闘技場。
空気が震える。
ギルド中の視線が、
訓練場を包む空気が、一瞬で張りつめた。
砕けたハンマーの残骸を見下ろしながら、アスモデウスは静かに拳を開く。
グレッグ=ハウンド――Aランク幹部は、壁に沈んだまま動かない。
その光景に、ギルマス・ヴァルドは短く息を吐く。
「……まだ終わっていない。――幹部五名、出ろ。」
次の瞬間、空気が震える。
鉄扉の奥から、五つの影がゆっくりと姿を現した。
炎、雷、鋼、風、そして影。
それぞれが己の異能を携えた、レギオン・ギルド最上位の戦闘員たち。
「五対一、か。」
アスモデウスは微動だにせず、紅の瞳をわずかに細めた。
「不公平だな。」
「安心しろ。」一人が笑う。「お前は一瞬で終わる。」
ヴァルドが腕を組み、声を張る。
「――始めろ!」
瞬間、五方向から殺気が走った。
最初に動いたのは双剣の雷使い、カイルス。
双剣に電撃が奔り、砂を焦がしながら疾駆する。
「――雷閃双断!」
アスモデウスは一歩も動かず、
ただ右手を上げた。
――ガンッ!
双剣が交差する瞬間、二本の刃は同時に砕け散る。
雷撃が拡散し、観覧席に火花が散った。
「っ!? な、なんで――!」
「電荷反応、吸収完了。」セリーヌの声が冷静に響く。
『雷素エネルギーを中和。再構成して逆位相出力に転換します。』
アスモデウスの掌から、蒼い電光が走る。
「返す。」
――ドガァンッ!!
逆位相の雷撃が閃光となり、カイルスを包み込む。
防御の魔導障壁が一瞬で焼き切れ、彼は地面に沈んだ。
左右から二人目と三人目――風の槍士と鋼の格闘士が同時に突撃する。
「《風断槍・疾!》」
「《鉄塊拳・崩砕!》」
槍と拳が交差し、
だが――空を斬った。
アスモデウスの姿が消える。
「なっ……!?」
次の瞬間、背後。
肘打ちと同時に膝蹴り。
風使いの顎が砕け、格闘士の腹部が陥没する。
時間差で響く衝撃音。
――ドグシャッ!! ドゴォン!!
砂塵が舞い上がり、二人の身体が同時に宙を舞う。
「っぐぅぅっ……!」
「……う、動けねぇ……」
観客席から息を呑む音が広がる。
「やるじゃねぇか……けど、これはどうだッ!」
四人目――魔炎術士の両手に、紅蓮の陣が浮かぶ。
空間が歪み、炎が槍のように伸びる。
「《煉獄崩焔陣》――ッ!!」
灼熱の波動が走る。
温度が急上昇し、床の金属が赤く溶け始める。
観客たちが思わず顔を覆った。
だが――その炎は届かない。
アスモデウスの足元に、淡く青い魔法陣が展開された。
幾何学の紋様が浮かび上がり、旋回を始める。
『魔炎反応、捕捉。吸収構文展開。』
セリーヌの声が響く。
炎が吸い込まれていく。
灼熱が冷却され、青い光に変わる。
「なっ、馬鹿な……俺の炎が……!」
『魔機術式・
外部魔力、主魔力と同位相で中和――完了。』
アスモデウスの掌に、蒼炎が集束する。
「返却処理――数倍化。」
――ズゴォォォォォンッ!!!
轟音。
吸収された炎が、青白く光を変えて逆流した。
炎術士が悲鳴を上げる間もなく、衝撃波に飲まれ、壁ごと吹き飛ぶ。
「ぎゃああああっ!!!」
その光景に誰も言葉を失った。
神教国の聖炎にすら劣らぬ、純粋魔力の暴走――
だがそれを完全制御しているのは、ただ一人。
「……魔法、返された……?」
「いや、“上書きされた”んだ……」
最後の一人が動いた。
黒装束の暗殺者。
背後に転移し、刃を突き立てる――
――が、その刃は届かない。
金属音。
アスモデウスの背部装甲が開き、
内部から展開された
「馬鹿な……気配を消したのに……!」
「脈拍検知済みだ。」
紅の瞳が振り返る。
――ドガッ!!
拳が放たれ、男の腹を貫くような衝撃。
影使いの身体が、数メートル後方へ吹き飛ぶ。
静寂。
砂塵が晴れる頃には、五人の幹部が全員、地に伏していた。
誰も立てない。
観客席の冒険者たちは声も出せず、ただ立ち尽くしていた。
アスモデウスの装甲の隙間から、蒼い蒸気が静かに漏れる。
拳を握り、彼は呟く。
(……制御率、97%。 充分だ。)
ヴァルド=ギルマスは黙って腕を組み、
長く、低く息を吐いた。
「……化け物だ。だが――認めざるを得ん。
貴様の実力、規格外。レギオン・ギルドとして介入を求める。」
リリスは唇を噛み、拳を握り締める。
セドリックとカイルは互いに目を合わせた。
「やっぱり……全部、計算のうちか。」
「……あぁ、団長の戦闘は“理論の極地”だ。」
だが、アスモデウスはわずかに首を振る。
「――断る。」
空気が凍りつく。
ギルマスの眉が動く。
「……断る、だと?」
「俺は――フォルネウス・ギルドに入る。」
観客席がざわめきに包まれる。
「な、何を言ってる……あの廃ギルドに!?」
「正気じゃねぇ……!」
リリスが息を呑む。
「どうして……そんな……」
アスモデウスは振り返らず、ただ静かにマントを翻した。
「光は――最も暗い場所にこそ、必要だ。」
夕陽が差し込み、黒い影が闘技場を覆う。
その背が扉の向こうに消えた瞬間、
ギルドの誰もが――理解していた。
“今、歴史が動いた”と。
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