第18話 リハーサルの挫けた声

~ 舞台の上では、勇気は時にしぼむ。それを支える言葉を教師は持てるだろうか~




 リハーサル二日目。体育館の床はまだ冷たく、子どもたちの靴音が乾いた音を返す。

 客席には他のクラスの先生たちが見学に並び、空気は本番さながらの緊張に包まれていた。


 大翔は進行台の前で立ち尽くしていた。ライトの代わりに体育館の蛍光灯が白く照らし、言葉が喉の奥で丸くなって動かない。

「……無理」

 小さな声が床に落ちる。観客席に並んだ椅子の列が、波のように歪んで見える。子どもたちのざわめきが止まり、空気が凍った。


 僕は台本を閉じ、合図も号令も置いたまま、ただ大翔の隣に立つ。

「ここ、いっしょに吸って、いっしょに吐こう」

 声を出さず、手だけで合図する。二拍、三拍。胸の上下を合わせる。

 大翔の肩から、ゆっくり力が落ちた。

「……最初の一文だけ、言ってみる」

 その言葉が、薄く閉ざされた空気に小さな穴を開けた。僕はうなずく。


 しかし大翔が口を開く前に、後方の椅子から保護者のひそひそ声が届いた。

「大丈夫かな……」「やっぱり無理じゃない?」

 今日は数名の保護者が自主的に見学に来ていたのだ。

 その囁きに、大翔の顔が固まった。足が一歩、後ろに下がる。


 僕は一歩だけ前へ出た。

「みんな、ちょっと待って。今は練習だから、うまくいかなくても大丈夫だよ」

 声を教室のときより低く、静かに広げる。

「大翔がやろうとしているのは、舞台を動かす大きな役目です。怖いのは当たり前。でも、ここは“挑戦していい場所”だから」

 そのとき、岡崎がすっと立ち上がった。

「だいじょうぶだよ。ゆっくりでいい」

 ナレーション役の岡崎が、マイクを持って大翔の方を向いた。

「ぼく、先に言ってもいい?」

 大翔が少し迷いながらうなずく。

 岡崎が台本の冒頭を読み上げた。「ぼくたちの町へ、ようこそ」。その声に合わせるように、大翔がゆっくり次の一文を重ねた。

 体育館の空気がふわりと戻ってくる。拍手が自然に起きた。


 休憩時間、体育館の隅で大翔が僕の袖をつかんだ。

「……ごめん」

「謝ることじゃない。怖いって言えたのが、すごいことだ」

 大翔はうつむいたまま、しばらく黙っていた。

「やりたいって言ったのに、できないのかなって思った」

「やりたいって言ったからこそ怖くなるんだよ。人前で立つのは、大人でも怖い」

 僕はかつて広告のプレゼンで失敗した日のことを思い出した。あの日、言葉が出なくなった自分を、誰も責めなかった。

「でも、怖くても一歩出た大翔は、もう進行役なんだ」

 その言葉に、大翔がほんの少しだけ笑った。


 放課後の職員室。

 彩花がこちらを見て眉をひそめた。

「今日、大変でしたね」

「はい……大翔が途中で止まりました」

「でも最後は続けられた。佐久間先生の声かけ、よかったですよ」

 彩花は少し笑い、言葉を添えた。

「怖さを悪者にしないの、大事です。大翔くんにとって“逃げても戻れる場所”になったはず」


 その横で小谷が頷いた。

「練習でつまずけるのは、いいことだ。本番前に怖さを出せたから、きっと強くなる」


 夜。

 アパートでノートを開く。


怖さを消そうとしない。怖さのまま立たせる。

“やりたい”の先にある恐怖を認め、戻れる場所を示す。


 書き終えて窓を開ける。夜風がカーテンを揺らす。

 スマホが震えた。彩花からのメッセージだ。


「大翔くん、明日から練習を休むかもと連絡がありました。無理はさせないけれど、先生から一言声をかけてあげてください。」


 胸の奥がきゅっと縮んだ。

 挑戦した子どもが、翌日また一歩を踏み出せるかどうかは、教師の声ひとつにかかっているのかもしれない。

 僕はスマホを握りしめた。

「明日、必ず声をかけよう」――その決意を、ノートの最後に書き加えた。






翌朝、登校してきた大翔は教室の前で立ち止まり、佐久間を見上げて一言――「先生、もう一回やってみたい」

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