第2話 職員室デビュー

~ 初めての職員室。名刺の代わりに、震えの残る勇気を差し出す朝 ~


 四月一日、春の朝。

 校門の桜は七分咲きで、ひらひらと花びらが舞っていた。黒いスーツの自分が、その中で少し場違いに感じる。広告代理店の頃の入社式をふと思い出す。あのときは自信と虚勢だけを持っていたが、今は――不安が胸を満たしている。


 校舎に入ると、ワックスの甘い匂いと新しいプリントのインクの匂いが混ざっていた。職員室のドアを前に足が止まる。ドアの上に小さく貼られた「関係者以外立入禁止」の文字が、なぜか威圧感を放っている。

 一呼吸。

 ドアを開けると、ざわつく声とコピー機の唸りが一気に押し寄せてきた。


 見慣れた顔もいくつかある。非常勤の頃、授業補助に入った学年の先生たちだ。でも今の立場は違う。今日は「臨時」でも「非常勤」でもない。担任・佐久間直樹としての初日だ。

「おはようございます」

 少し大きめの声を出したつもりだったが、室内のざわめきに吸い込まれる。何人かが顔を上げ、軽く会釈を返してくれる。すぐにまた各自の作業へ戻っていく。

 机の場所を探してキョロキョロしていると、山田彩花が手を振った。

「佐久間先生、こっちです」

 職員室の窓際、プリンタの近くの一角。机の上には名前札と教科書の山。新しい職員用ノートPCが一台。

「ここが今日からの佐久間先生の席です」

「ありがとうございます」

「朝の会、今日からですよね。準備できそうですか?」

「えっと、はい。たぶん」

 彩花はクスッと笑う。

「緊張してますね」

「してます。……正直に言えば、怖いです」

「大丈夫。怖いのは当たり前ですから」

 その言葉が、ほんの少し心をほどく。


 始業式前の職員会議が始まった。校長の訓示、事務からの連絡、各学年主任の報告。聞き慣れない用語が飛び交い、僕はノートに必死でメモを取る。

「全校朝会は体育館で、放送設備はまだ工事中です」

「ICT端末の初期設定は三日までに」

 ――ICT、ここなら役立つかもしれない。

 そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。


 会議が終わると、彩花がスッとプリントを差し出してきた。

「今日の流れです。朝の会のあとすぐ体育館に行きます。あ、自己紹介のとき、長すぎると子どもたち持たないので注意です」

「了解です」

 僕は笑う。だが心の中は嵐だった。初めての朝の会。子どもにどう語りかければいいのか。昨日の夜、考えたスライド案は結局一枚目で止まったままだ。

 「おはようございます、担任の佐久間です」――それだけでは足りない。でも語りすぎれば空回りする。


 チャイムが鳴る。

 深呼吸をして、教室のドアを開ける。

 四年二組。まだ誰も座っていない机、真新しい時間割表。窓際にランドセルを置きにきた最初の子と目が合う。

「おはようございます」

「お、おはよう」

 子どもが軽く会釈して、席に着く。二人目、三人目とやってくる。教室が少しずつ息をし始める。


 全員がそろったとき、僕は前に立った。

「おはようございます」

「おはようございます」――まだ小さな声。

「今日からこのクラスの担任になりました、佐久間直樹です」

 言いながら、胸がざわつく。広告代理店で百人の前にプレゼンしたこともあるのに、十歳の子ども二十数人を前に、声が震える。

「みんなと一緒に、いろいろなことを学んでいきたいと思っています。まずは……」

 次の言葉が出てこない。夜中に考えたはずの「約束」の文が、頭から抜け落ちる。

 沈黙。

 後ろの方の男子が小さく咳払いをする。空気がじわりと硬くなる。


 ――まずは正直に。

「……実は、僕も緊張してます」

 言ってから、心臓がドクンと鳴った。

「先生になる前、別の仕事をしていました。だから、みんなより“先生の先輩”じゃないかもしれない。でも、みんなと一緒にこの一年を作りたいと思っています」

 教室が、少しざわつく。前列の女子が目を丸くしている。男子の一人が「元サラリーマン?」と呟く。

「そう。サラリーマンでした」

 笑ってみせると、子どもたちがクスクスと笑った。緊張の糸が少し緩む。

「だから、みんなの力を貸してください。まずは教室のルールを一緒に決めよう」

 その瞬間、数人の手が上がった。予想外に早い反応。

「おしゃべりしていいときとダメなとき決めたい!」

「黒板に何か書くの先生だけ?」

 まだぎこちないが、対話が始まった。胸の奥で、小さな炎が灯る。


 朝の会を終え、体育館への移動。廊下を歩きながら彩花が耳元で囁く。

「いい出だしでしたよ」

「どこが?」

「“緊張してる”って言ったとこ。あれ、子どもは好きですよ」

「……本当ですか」

「うん。背伸びしてないの、ちゃんと伝わりました」

 足取りが少し軽くなる。


 体育館では始業式。校長が話し、音楽が流れる。保護者の一部も参観している。舞台袖からクラスの様子を見ると、まだ落ち着かない子もいるが、こちらを時々見てくる目がある。

 あの目に、何を返せるだろう。


 式が終わり、教室に戻る。配布物を説明し、係を決める。混乱は多い。声の大きい子に押されて泣きそうになる子もいた。彩花が後ろでさりげなくフォローしてくれるのが救いだった。

 やっぱり、甘くない。

 でも、全く届かないわけでもない。


 帰りの会を終えて子どもたちを送り出したあと、机に腰を下ろす。息が長く抜けた。

「初日、おつかれさまです」

 彩花が缶コーヒーを差し出す。

「今日の佐久間先生、ちゃんと先生でしたよ」

「……本当ですか」

「ええ。少なくとも、子どもたちは“この人が担任なんだ”って受け入れ始めてます」

 胸がじんわりと温かくなる。それと同時に、重さも増す。

 ――このクラスを預かるのは、もう「非常勤」じゃない。




だが安心する間もなく、次に待っているのは“初めての授業”。うまくいく保証はどこにもない。

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