第8話 契約の代償

 血の契約を交わした翌朝、悠真は奇妙な感覚で目を覚ました。


 身体が異様に軽い――いや、軽すぎる。まるで空気よりも薄い存在になったような感覚が、骨や血管の奥でざわめいている。


 立ち上がると、鏡に映る自分の瞳が一瞬だけ赤く輝いた。


「……っ!」


 慌てて目をこすったが、すぐに元に戻る。夢か幻か分からない。


 だが胸の奥には、昨夜交わした怜司との感触がまだ鮮明に残っていた。


 あの温かさと同時に、どこかで「もう後戻りはできない」という予感が強く迫っていた。




 登校すると、怜司もまたどこか様子が違っていた。


 普段は冷静沈着な彼の表情に、微かな疲労が滲んでいる。


 だが悠真を見ると、口元に小さな笑みを浮かべた。


「どうだ、調子は」


「……正直、変だ。体は軽いのに、胸がざわざわする」


「俺もだ。だが力は確実に増している」


 そう言って怜司はペンを指先で軽く弾いた。次の瞬間、ペンは空気を切り裂くように宙に留まり、淡い光を帯びて揺れていた。


「術式の質そのものが変わったんだ。契約の代償だろう」


「代償……?」


 悠真の背筋が冷たくなる。


「力を得るほど、心身への負荷も増す。お前の瞳に赤が宿るのを、今朝、感じた」


「やっぱり……」


 胸がざわつく。鏡に映った光景は、幻ではなかった。




 その日の放課後、二人は再び裏界へ踏み込んだ。


 ヘッドギアを装着し仮想世界によって呼び出されたゲートは、以前よりも重く禍々しい気配を放っていた。


 足を踏み入れた瞬間、周囲の景色が異様に歪んだ。


 かつての校舎の廊下ではなく、血に濡れた鳥居が無数に並ぶ異界の参道。


 鳥居にはすべて狐面が吊り下げられ、風もないのにゆらゆらと不気味に揺れていた。


「……歓迎されてるな」


 怜司が剣を抜く。その声は冗談のようでいて張り詰めている。


 次の瞬間、参道の奥から巨大な影が現れた。


 それは人の背丈の三倍はある異形の面妖。


 顔の中央には一つ目がぎょろりと光り、その周囲を複数の狐面が螺旋状に回っていた。


「……“仮面守(かめんもり)”か」


 怜司が吐き捨てる。


「狐面の眷属の中でも守護役だ。俺たちを本気で消すつもりだな」


 怪物が地を揺るがすほどのけたたましい咆哮を上げた。


 音ではなく、直接脳髄に響くような衝撃波が襲いかかり、悠真は膝をつきかける。


 だが、次の瞬間――怜司の掌が肩を支えた。


「立て悠真。お前は俺と繋がっている」


 その言葉に呼応するように、悠真の弓が赤黒い光を帯びる。


 矢を番えると、心臓の鼓動と一体化したように霊力が溢れ出す。


 矢を放つ。光の尾を引き、狐面の一つを貫いた。


 だが同時に、悠真の掌から血が滴る。


「……っ!」


 痛みに顔を歪める悠真に、怜司はすぐ駆け寄った。


「やはり、契約の代償だ……力を使うたびに、お前の血が削られる」


「そんなの……構わない! お前と並んで戦えるなら!」


 叫ぶ悠真の瞳は血のように赤く燃えていた。


 怜司は一瞬、目を見開き、そして微かに笑った。


「……なら、俺も覚悟を決める」


 二人の気配が重なり合い、参道全体が震えた。


 赤い光と黒い影が絡み合い、矢と剣が一斉に面妖へと突き刺さる。


 しかしそのとき――参道に吊り下げられた無数の狐面が一斉に開眼し、声を合わせて囁いた。


《血の契約は、やがて魂を喰らう》


 悠真の胸に、強烈な痛みが走った。


 心臓を握り潰されるような苦痛に、視界が赤く滲む。


 怜司の声が遠くなる。


「悠真! 耐えろ――!」


 その瞬間、悠真の意識は深い闇へと落ちていった。

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