第6話 揺らぐ契約
裏界の廊下に浮かぶ狐面は、ただの仮面ではなかった。
双眼は瞳孔のように深紅に光る穴からは白霧の様にゆっくりと冷気が漏れ、空間全体が軋む。
その存在感だけで恐怖のあまり悠真の足はすくみ、弓を構えた腕がいつにも増して重くなる。
「怯むな、悠真!」
怜司の漆黒の剣が狐火の様に薄っすらと蒼白く輝き、狐面に斬りかかる。
しかし刃は、まるで霧に触れるかのように手応えを持たず、逆に触手の様に蠢く黒い糸が剣を絡め取ろうと伸びてきた。
怜司がすぐに身を引く。
「やはり……ただの眷属じゃない。本体の意識の一部がここに顕現している」
《契約の子らよ》
狐面の声が響き渡る。男とも女ともつかぬ、耳の奥を掻きむしるような囁き。
《お前たちの絆は甘美だ……だが絆は血に変わり、やがてお前たちを引き裂く》
「黙れ!」
悠真は叫び、渾身の力を込めて矢を放った。
銀光は一直線に狐面を貫こうとするが、寸前で糸に絡め取られ、ねじ切られて無残に消えた。
「っ……!」
焦りが胸を満たす。矢が効かない。怜司の剣も届かない。
狐面はただ漂いながら、二人を観察するかのように嗤っていた。
攻撃が無効化される中、悠真の視界が急に滲んだ。
目の前の狐面がぼやけ、代わりに頭の奥へ直接声が流れ込んでくる。
《本当に彼を守れるのか?》
《彼はお前のせいで傷つく。お前のせいで血を流す》
「やめろ……!」
必死に首を振るが、声は止まらない。
怜司が昨日負った傷が、鮮明に脳裏に蘇る。自分を庇って裂けた腕。滲んだ血。
――もし次は、致命的な傷だったら?
もし怜司を死なせてしまったら?
矢を構える指が震え、心臓が軋む。
「悠真!」
怜司の声が現実へと引き戻す。
「惑わされるな! 奴はお前の心の隙間を利用してるだけだ!」
だが悠真の足は動かない。
狐面の囁きは恐怖と同時に甘く残酷な真実のように響いていた。
次の瞬間、狐面の糸が悠真へと殺到した。
避ける暇もなく絡め取られ、身体が宙に吊り上げられる。
「ぐっ……!」
「悠真ッ!」
怜司が駆け寄る。だが糸の結界が立ち塞がり、剣が通らない。
悠真の喉を締め付けながら、狐面は囁く。
《見ろ、お前は弱い。ただ守られるだけの存在だ。誰の役にも立っていない。彼を巻き込むな》
視界が霞む。息が苦しい。
それでも、悠真の心には一つだけ確かなものがあった。
――守られるだけじゃ嫌だ。
――俺は、怜司と隣に立ちたいんだ。
その想いに応えるように、胸の奥から熱が迸った。
光が全身を駆け巡り、両手に握る弓が眩く輝く。
「俺は……俺はお前なんかに決して惑わされない!」
叫びとともに、悠真は光の矢を放った。
至近距離から放たれた矢は糸を焼き切り、狐面を貫いた。
仮面は裂け、断末魔をあげながら霧散する。
床に崩れ落ちた悠真を、怜司がすぐに両手で抱きとめた。
「大丈夫か!」
「……あぁ、なんとか」
息を整える悠真の頬に、怜司の手が触れる。冷たい指先が、熱を帯びた肌に優しく重なる。
「……お前がいなくなるかと思った」
怜司の声は微かに震えていた。
その言葉に胸が強く締め付けられる。
迷いも恐怖も、すべてを突き破るように悠真は言った。
「俺は……お前のために戦う。もう二度と守られるだけじゃ終わらせない」
怜司の瞳が驚きに見開かれ、やがて安堵の微笑へと変わった。
その距離は、友としてのものを超え、互いの心を絡め合うものになりつつあった。
だが――狐面の最後の囁きだけが、二人の耳に残っていた。
《絆は血を呼ぶ。忘れるな……》
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