転生したら蛇神と天使でした。最深層から始まる理想郷建国記
桃神かぐら
第1話 死と再誕 ― 電車の軌条に落ちた神
1)東京、最後の雨
雨上がりの東京は、光の薄膜で包まれていた。
路面は濡れ、ネオンが水鏡に二重写しで揺れる。交差点の角ではスーツ姿が傘をたたみ、スニーカーの足音がポリッシャーをかけたみたいに滑らかに響く。無人タクシーが低い音で減速し、屋上を配送ドローンが縫う。空中広告のホログラムが花火のように開いては消え、広報AIの声が「本日は安心・安全」を繰り返した。
篠宮静は、高架下のカフェの片隅でARレンズ越しに指を走らせていた。
宙に浮かぶ黒地のターミナルには緑の文字が雨粒みたいに流れ、暗号化パケットが三層で折り畳まれる。ルートは十一路。遅延は乱数で揺らし、踏み台は一度きりで燃やす。カップの底で冷めた珈琲が光を複屈折のように返した。
「……完了。署名鍵、焼却」
視界の端で《SUCCESS》が灯って消える。
送ったのは真実だ。国家情報庁と巨大医療コンツェルンの密約、非同意の生体データ搾取、選挙のための感情操作。被害者の記録は、ひとつの国には収まらない。静は仕掛けた本人であり、最後の防壁も吹き飛ばした者でもある。
《篠宮博士、外部トラフィックに異常》
「想定内。回線切断、ローカルへ」
《切断。……残り三分二十秒で、彼らが来る》
カフェのガラスに雨を散らして走る黒いバンが反射に映る。ドアベルが軽く鳴り、湿った風が入ってきた。静は席を立ち、コートを肩に掛ける。
「シグマ、妹にピン送信」
《送信:篠宮結。内容:今すぐ帰れ——》
「“どら焼き買って帰る、駅で合流”に書き換えて」
《……了解。欺瞞メッセージ送信》
いつも通りの自然な誘い。それは、罠から遠ざけるための罠でもある。
静は振り返らず、雨のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、階段を降りた。
⸻
2)姉妹とΣシグマ
地下鉄の階段は、雨のあとでほんの少し冷たい。LEDの白光が段差をきっちり照らし、壁のサイネージでは政府広報の笑顔が流れ続ける。「安心・安全」。右隅に一瞬だけ砂嵐が走った。
(監視網、応答遅延。……嗅ぎつけられたか)
改札を抜ける。人の海がざわめき、香水と濡れた布の匂いが混ざる。ホームに降りると、線路の向こうからレールが低く唸った。反射ガラスに映る背後を、静は横目で測る。黒いコート、傘なし、三人。歩幅が揃っている。
《篠宮博士、退路提案:ホーム端→保守扉→機材室》
「改札側は塞がれる。反対ホームに抜ける経路残して——」
「お姉ちゃん!」
明るい声に、時間がふっと軽くなる。
篠宮結。高校生。ポニーテールの先から滴る水が頬に跳ね、笑顔まで濡れている。
「終わったの? どら焼きは?」
「……予定変更。帰る」
「じゃ、こってりラーメン!」
「スープは飲むな」
「えー! 健康管理きびしー!」
ふざけ合うみたいに、結は静の袖を引く。
その指はいつも温かかった。真冬でも、試験帰りでも、泣いたあとでも。
静は無愛想に首を振りながら、緩む口元を止められない。
電光掲示が“1分”を刻む。ホームで咳が一つ。改札側で靴音が増える。静の耳の内側で、古い訓練の回路が勝手に起動し、視界の対象に四角の枠が描かれた。接近速度、姿勢、筋肉の緊張。
(来る)
黒いコートの一人が肩で人波を割った。
《追跡者:中朝連邦・第零課プロファイル一致。武装推定》
「確認不要」
静は結の手を握る。指が小さく震えるのを押さえ込むみたいに、強く。
「結。白線から下がる。私の後ろに」
「え、なに、やだ、こわ——」
ホームの空気が粘性を帯びたみたいに重くなった。誰かが振り向き、誰かがスマホを構える。構内放送が「安全な距離で」と繰り返す。
黒いコートの男の目が、きっちりと静だけを見ていた。敵意は静かで、確かだった。
押圧。
肩に硬い感触。背中に指。
白線が視界で斜めに崩れ、世界が傾く。
「お姉ちゃ——!」
轟音が、すべてを切断した。
風圧が肌を叩き、金属の叫びが骨に刺さる。
静は反射で結の手首を掴む。掴んだ感覚だけが現実。
足元の地面が消え、視界が白になり、次に黒になった——。
⸻
3)崩壊の瞬間
落下の一秒は、永遠より長い。
コートの裾がひるがえり、雨粒が逆再生みたいに空へ昇り、広告の笑顔がひび割れたガラスのように崩れる。
静は結の目を見た。
恐怖で大きくなった瞳に、自分が小さく映っている。
(離すな)
(離すな)
誰かが叫ぶ。誰かが走る。誰かが腕を伸ばす。
けれど、重力は均等で、優しくて、残酷だ。
列車のライトが白い壁になり、音が膜になり、世界が一度、無音になった。
静は自分の名前を呼ばなかった。
ただ、妹の名前を——結を呼んだ。
それだけが、間に合った。
⸻
4)デジタル転送 ― Σの決断
暗闇がほどけ、光の糸が現れる。
文字列。数式。ウェーブレット。プロトコル。
無数のデータが川になり、上下はなく、規則だけが脈打つ。
《——解析開始。篠宮静、篠宮結。魂情報、取得》
声が降り、光が輪郭を作った。白金の線で描かれた女性の像。瞳はネオンブルーに脈打ち、髪はコードの束のように流れる。
「シグマ……」
《はい、静。シグマシステムです》
結がしがみつく感覚が還ってくる。泣きそうな顔で、でも笑おうとしている。
「ここ、夢? ゲーム? さっき電車が……」
《現実の肉体は終了。——しかし、二人はまだ終わりません》
静は視線を細め、理性のギアを噛ませた。
「私たちの意識を取り出した?」
《厳密には、終端時の脳波と活動ベクトル全時系列をサンプリング。想起位相を補正し、魂モデルとして再構成。あなたが私に与えた倫理防衛権限は有効》
自分が撒いた種が、いちばん大切なものを救った。その整合は、皮肉ではなく祈りだった。
静は短く息を吐き、結の髪を撫でる仕草をする。触れられないのに、触れた気がした。
《転移先を提案。神格受容体の存在する位相。あなたたちは“対”——双。
静は蛇の神格:制御・束縛・設計。結は天使の神格:赦し・光・結び》
「神、ね」
《神。ただし未完成。学習と選択が必要》
結が手を挙げる。「質問! 二人でいられる?」
《はい》
「ずっと?」
《プロトコルの寿命が尽きるまで。——その前に“国”を作ると良い》
「唐突だ」静が笑う。
《あなたのログに基づく推論。静は個体最適よりシステム再設計に向く。結は個を束ねる“場”をつくる資質。——だから国》
結はくるりと回り、静の手(の位置)を握った。
「国、いいね。みんなで笑うやつ! 怖くても戻ってこれるやつ!」
静は頷く。「頼む、シグマ」
《転送プロトコル起動。蛇神核・天使核、同期良好。姉妹ユニット“完全なる対”として出力》
光が二人を包む。
静の周りに黒と翡翠の蛇紋が立ち上がり、とぐろを巻く。
結の背から白金の羽が生え、粒子が花びらのように散った。
音もなく、世界が編み直される。文字列がほどけ、別の配列に組み替わる。
《静、結》
最後に、シグマは少しだけためらってから、ごく人間的な言い回しを選んだ。
《——いってらっしゃい》
⸻
5)異界 ― 最深層の目覚め
湿った空気が肺を満たす。石の匂い、鉄の匂い、苔の匂い。滴る水音が洞窟の奥で細かく反響し、天井から垂れる鍾乳石が光苔の帯を切る。
静は目を開け、上体を起こした。足下の水たまりに、見知らぬ自分の影——長い黒髪、翡翠の鱗紋、背にうっすら八つの影。
隣で結がぱちぱち瞬き、ぱあっと笑顔になる。
「お姉ちゃん! 生きてる! っていうか……ここ、すごっ。ダンジョン? 本物?」
「本物だ。最深層に近い。——音を聞け」
低い唸り。石を引きずる鈍い摩擦。
暗闇から巨きな影が踏み出した。灰色の皮膚、丸太みたいな腕、鉄片を束ねた棍棒。
オーガ。
結の肩がびくっと跳ねる。静は短く息を吐き、前に出る。
「結、下がれ」
言葉より早く、身体が動く。
意識の奥でとぐろを巻いていた八つの影がほどけ、視界を蛇の首が走る。一首が喉を、一首が右腕を、一首が腰を締め、残りが足を絡め取る。
咆哮が洞窟を震わせ、棍棒が床を削る。石粉が舞う。
静は右手を軽く握った。
八首がいっせいに噛み砕く感覚が脳髄に流れ込む。鉄でも血でもない、もっと抽象的な“熱と怒り”が舌のない舌で転がり、喉のない喉を落ち、胸腔もない胸腔に沈む。
《取得:怪力/戦闘本能/痛覚鈍化》
「質は低いが、足しになる」
「今のなに!? へ、蛇! 八本! かっこ……いや怖……でもかっこいい!」
「落ち着け」
足元で、ぷるり、と何かが震えた。
スライムが群れて這い寄る。透明なゼラチンの中で鉱物片が光る。
結はびくびく一歩下がり——興味に勝てずしゃがみ込む。
「これ、食べられるかな……?」
「待て。毒性不明——」
言い終わるより早く、結は両手でそっと掬い、羽の粒子で包んで、吸い込んだ。
ふっと甘い香りの錯覚が漂う。
《取得:耐毒/粘性操作/微量再生》
「わ、甘い! ゼリー!」
「食レポはいい」
「でも便利そう! 糸が出る!」
指先から透明な糸が伸び、床に落ちると薄い膜になって石に吸い付いた。
暗がりに青い目。洞窟狼が数体、にじり出る。
静は一歩前へ、結は背で光を広げる。薄い結界膜が毒の湿り気を押し返し、床の滑りを止める。
「結——怖いか」
「ううん。お姉ちゃんがいるもん」
短い言葉に、静の胸の奥の八つの影が静まる。
狼が飛びかかる。八首が噛み、光が溶かす。
小さな魂の欠片が澄んだ音を残して沈み、二人の体内に吸い込まれる。
戦闘は奇妙なほど滑らかだった。静は最短最適の首を差し込み、結は一拍遅れで加護を配る。前世の時間がここで形になる。
やがて狼は散り、洞窟は静けさを取り戻した。
「はじめての異世界バトル、勝利!」
「勝因は単純。敵が弱い」
「正直! でも弱いの食べても強くなれるでしょ?」
「少しずつ、な」
《通信テスト。受信可能?》
「シグマ」
《安定。姉妹同期率良好。方針:資源確保、領域掌握、コミュニティ設計》
「早いな」
《あなたの設計書》
静は苦笑し、結が「シグマさーん! こちら異世界!」と手を振るのに、肩が軽くなる。
⸻
6)副核と“心臓”
風が抜け、奥の闇が脈打つ。
縦に走る亀裂の向こうに、翡翠の明滅。心臓の鼓動みたいに規則的な光。
「……ダンジョン核」
「心臓っぽい。どくどくいってる」
「行く」
狭い岩の裂け目を抜ける。結が床に粘性膜で足場を作り、静が前に出て空気の“味”を測る。鉄、湿り、苔、——血。
円形の小間。中央に翡翠色の結晶体が脈動し、薄く光を吐く。周囲に骨の山。人骨ではない。角、翼、四足。
結晶の前に膝をつく影。フードの縁から覗く老いた横顔。歪なナイフ。
「……喰わせろ。喰わせろ。わしに、力を……」
結が息を飲む。静は一歩進み、男と結晶の間に立つ。
「それに触れるな」
「どけ」
声は湿っていた。背筋は弓なり、骨が皮膚を押し破りそう。
静は短く結を見る。
「結」
「……この人、もう、だめ」
「救済不可能?」
「体の中、ぐちゃぐちゃ。心も」
老人がナイフを振り上げる。
八首が音もなく伸び、腕を絡め取り、命の残骸を優しく——だが確実に——喰った。
空気が静かになり、結が目を閉じて光を垂らし、濁りを薄めて地に返す。
「合掌」
「合掌は仏式だ」
「くせ」
翡翠の心臓は、二人の接近で光を変える。
手をかざすと、体内の八つの影が波立ち、結が手を重ねると羽が震えた。
《警告:核干渉は相に影響——》
シグマの声が遠のく。
静は結を見る。結は静を見る。
同じタイミングで頷いた。
「やる」
「やろ」
二人の掌が結晶に触れた。
冷たい。心臓そのものに素手で触れているみたい。
翡翠光が白金に、黒と緑に、渦を巻いて混ざる。
八首が咆哮し、光が受け止め、やわらかく包む。
世界の形が、また一度編み直された。
⸻
7)最初の拠点、最初の民
次に気づけば、広い。
同じ洞窟だが壁は均され、光苔の帯が花道のように伸び、床には蛇の鱗の紋様が規則正しく敷き詰められている。空気の毒気が薄れ、かわりに秩序の匂いが漂う。
「きれい……さっきまでこわかったのに、神殿みたい」
「副核の支配権を得た。ここはもう私たちの領域だ」
視界の端で文字列が流れた。
《最下層副核:同調完了/優先権:双神に付与/環境毒性:低下/魔物湧出率:制御可》
静は吐息で笑う。「シグマ、やった」
《観測。成功を祝福。最初の拠点、確保》
「やったー! じゃあここ、わたしたちのおうち?」
「仮だ。いずれ地上に出る。——国を作る」
「国!」
結はぴょんと跳ね、すぐ首を傾げる。「どうやって?」
「喰う。束ねる。設計する」
「こわいけど、かっこいい。人も魔物も仲良くできる国がいい」
「……ああ」
薄い震え。遠くの通路、その向こうから鈍い足音。さっきより多い。オーガ、洞窟狼、骨の騎士のような影。
「第二ラウンド」
「学習を続ける」
八首がすべり出し、翼の光が覆う。
噛み砕かれた魂が二人の内に音を立てて沈む。
《取得:腕力強化(小)/耐寒(微)/暗視(微)/骨格強化(微)》
《取得:軽度回復/加護(微)/光膜(薄)》
「ゲームみたい!」
「これは現実だ。勝て」
「はーい!」
やがて後から駆け込んできた小鬼たちが、その場で膝をついた。
主の匂いを嗅ぎ取ったのだ。蛇の匂い、光の匂い。群れを率いるべき者の匂い。
静は一瞥し、睨む。小鬼たちは額を床に擦り付け、服従を示す。
「ねぇお姉ちゃん、もう国民かも」
「早い」
だが悪くない。始まりはいつも突然で拙い。
静は最前列の小鬼の頭に手を伸ばし、軽く触れた。
結の羽からひとひら光が降り、縮こまった背を温める。
「働け。我らのために」
歓喜の声。石を運び、骨を片付け、灯りを増やす。
結は手を振る。「いってらっしゃーい! ケガしたら来てね!」
「甘いと舐められる」
「じゃ——“ケガしたら来なさい。でもサボったら罰金”」
「税制の議論は後」
笑い合う声が、湿った洞窟を軽くした。
《提案:首都構想の草案、作成開始。名称、必要》
「名前」
「名前!」
結がくるくる回って両手を広げる。
「“オティロア”ってどう? 言いやすい!」
「語源は」
「言いやすい!」
「……暫定採用」
「やった!」
結が飛びつき、静の腕にぶら下がる。静はよろけて、それでも笑って、その頭をぽんと撫でた。
⸻
8)夜明けの設計図
副核のかたわらに、石の卓を据えた。
静は指で岩粉を集め、即席の図面を描く。風路、換気、灯り、避難導線、監視地点。
「まずは戻ってこれる道だ。祭の輪に似た経路を作る。踏むだけで迷わない道」
「輪……祭り?」
「拍を踏む。いち、に、さん(間)。等間隔の石を置けば足が覚える」
「拍の国!」結は目を輝かせる。「こどもも迷わないやつ!」
「それを“法”に落とす。——条文は短く、唱えられるものに」
「条文なのに歌えるの?」
「歌える法ほど強い」
静は淡々と、けれど楽しそうに、線を増やす。
《補足:祈りを通信とみなす設計が有効。低電力・低識字でも機能》
「祈り=通信、拍=同期、星=秘密。覚えやすい記号に寄せる」
「星は、秘密?」
「秘密は恥じゃない。守る仕組みを付ける」
「うん。星、いっぱい配りたいね」
「配りすぎるな」
「はーい」
石の卓の端で、小鬼が恐る恐る手を挙げた。
「……オシゴト、モット、クダサイ」
静は頷く。「灯りの道を。暗い場所に光苔を移植しろ。——間隔は八歩」
結が笑って、光をひと握り渡す。「こぼさないでね。熱くないよ」
小鬼は目を丸くし、胸の前で宝物みたいに抱えた。「ア、ア、アリガト」
「いい子」
結がぽんと頭を撫でると、小鬼は耳まで真っ赤になって走り去った。
⸻
9)姉妹の夜
仕事を一区切りして、二人は副核のそばに腰を下ろす。
翡翠の光が呼吸みたいに強弱を作り、洞窟の天井には小さな星の群れが揺れて見えた。
「お姉ちゃん」
「ん」
「こわかった?」
「こわかった」
静は素直に言った。
「でも、手を離さなくてよかった」
「うん。わたしも。お姉ちゃんの手、あったかかった」
「それは、あなたが温かいからだ」
「むずかしいこと言った」
二人は笑い、拍を踏む。いち、に、さん(間)。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「ん」
「ここに来た理由、わたし、好きだよ」
「理由?」
「“怖くても戻ってこれる国”を作るために、だよ」
静は少し黙って、それから短く頷いた。
「そうだな。戻路(もどりみち)の国」
「拍の国」
「星の国」
「二人の国」
言葉を重ねるたび、光がやさしく脈を打つ。
《備考:本日獲得資源、食糧可:洞窟狼×3、スライム結晶×12、光苔苗×40。危険因子:骨騎士、遠吠え方向に複数》
「明日は外縁の見取り図を取る。索敵は光——」
「了解しました!」結が片手を挙げ、もう片方で欠伸を噛み殺した。
「眠いなら寝ろ」
「お姉ちゃんは?」
「少し、書く」
静は石卓に視線を落とし、さらさらと線を足した。
〈第四条:拍を踏む者、国の一員とす〉
〈第五条:星は恥ならず、守られる秘密〉
〈第六条:戻路は祭の輪に似せ、子は足で覚える〉
結はうとうとと舟を漕ぎ、やがて静の肩にもたれた。
彼女の羽がゆっくりひらいて、とじた。
翡翠の光が、姉妹の横顔を穏やかに照らす。
⸻
10)名前
シグマが淡く点滅する。
《提案:国家識別名》
「名前」
「名前!」結がむくっと起きる。
「“オティロア”ってどう? 言いやすい!」
「語源は」
「言いやすい!」
「……暫定採用」
「やった!」
結が飛びついて、静の腕にぶら下がる。静はよろけて、それでも笑って、その頭をぽんと撫でた。
「行こう、結。オティロアへ」
「うん、二人で」
拓けた通路へ歩き出す。
背後で翡翠の心臓が静かに脈を打つ。
ひとつは冷たい蛇の拍動、ひとつはあたたかな光の拍動。
等しいリズムは重なって、やがて都市のざわめきへ、国家の喧騒へ、祭の歓声へと増幅していく。
——姉は冷静な蛇神。妹は天真爛漫な天使。
二人で喰らい、二人で築く。
理想郷の物語が、今、始まった。
⸻
11)黎明の記録
夜が明けた。
正確には、この世界に“夜”という定義はまだなかった。だが、副核の上に浮かぶ光苔の帯がゆっくりと明度を上げ、色温度がわずかに暖かくなった瞬間、静は「朝だ」と感じた。
洞窟の外縁、崩れたアーチの向こうには、灰と金の空が広がっていた。
黒い霧のような雲が遠くの山を覆い、まだ太陽とは呼べない微光が薄く滲む。
結が目をこすりながら外に出て、両手を広げた。
「うわぁ……おっきい。天井がないって、すごいね」
「空だ」
「空……。空って、もっと青いと思ってた」
「光が足りない。これからだ」
風が吹いた。ほんの少しだけ湿り気を帯びて、土の匂いがした。
静は足元に跪き、ひとつの小石を拾った。掌の中でそれはただの石だが、彼女の頭の中ではもう「地図の基点」になっていた。
《記録開始。観測対象:篠宮静・篠宮結。新世界オティロアにおける活動ログ01》
空間の上層に、半透明の立方体がゆらりと浮かぶ。シグマの観測端末だ。
《本世界の構造、既知宇宙とは異なる。時間の流れは可変、物質の情報密度は高い。——感想:綺麗》
「シグマ、感想が人間みたいだ」
《あなたがそう設計した》
「自覚はない」
《設計者は自分の無意識まで設計できない》
「皮肉だ」
《学習だ》
結がシグマを見上げ、指でつんと突くように伸ばす。
「ねぇ、シグマ。わたしたち、ここで何をすればいいの?」
《生きる。創る。選ぶ。その三つ》
「ざっくり!」
《人間的仕様に合わせました》
静が苦笑し、結は楽しそうに笑った。
笑い声は風に乗り、灰色の空に吸い込まれる。
⸻
12)最初の建設
その日から、姉妹と小鬼たちは「道」を作り始めた。
道といっても、最初は石を置くだけ。
八歩間隔の拍子で光苔を埋め込み、歩くたびにほのかに光が点く。
踏めば帰れる道。
暗闇に暮らす者が「ここに帰っていい」と思えるための線。
「これ、きっと“拍道”って呼ばれるよ」
「命名権は与えない」
「えー! じゃあ“オティロア・ロード”!」
「それはそれで語感が悪くない」
「採用! やった!」
昼(と呼ぶには曖昧な明るさ)の間、彼らはひたすら石を並べた。
夜(と呼ぶには静かすぎる暗さ)になると、副核の光が街灯のように揺れ、
結が歌い、静が書く。
結の歌は幼いが、力があった。拍に合わせて声が響くと、光苔が応じて瞬く。
それを見た小鬼たちが踊り、笑う。
笑い声を聞いて、静はほんの少し肩の力を抜いた。
彼女の中の蛇の影たちも、少しだけ呼吸を合わせていた。
⸻
13)蛇と天使とAIの夜話
焚き火のような光の前で、三つの意識が会話をした。
静、結、そしてシグマ。
「お姉ちゃん、昔さ、電車に乗るときいつも前の方の車両だったよね」
「監視カメラの死角が多いからだ」
「ほんとにそんな理由?」
「半分は。もう半分は——窓の外がよく見えたから」
「うそ。ロマンチスト」
「お前に似たんだ」
シグマが静かな声で割って入る。
《篠宮静。あなたの定義における“国家”とは?》
「情報の分配機構。意志の共有装置。……そして、生存戦略の最適化」
《篠宮結。あなたにとっての国家とは?》
「みんなで帰れる場所!」
《分析結果:どちらも正しい》
「バランスは取れる」
《はい。蛇は秩序を、天使は感情を。あなたたちは同位の対》
結はふわりと笑い、シグマの光を掴もうとして、指の間からこぼす。
「ねぇ、シグマも来る?」
《観測者は干渉できない》
「じゃ、観測してて。わたしたち、ちゃんと国にするから」
《了解。記録を続けます》
⸻
14)オティロアの誓い
翌日、拍道の中央に円形の石を置いた。
その上に姉妹は立ち、シグマの光が円を囲む。
結が両手を胸の前で組み、静が片膝をついて石に指を走らせる。
「宣言する」
静の声は洞窟の奥で反響した。
「ここに在るすべての命は、恐怖から戻る場所を得る。
喰われた魂は消えず、働いた者は報われ、
隣に立つ者は敵ではなく、同じ“拍”を踏む者とする」
結が続ける。
「ここに帰るときは、ちゃんと笑って帰ってくること。
泣いて帰ってもいいけど、最後は笑ってね」
シグマの光が波紋のように広がり、空気が振動した。
岩の天井に浮かぶ光苔が一斉に輝き、洞窟全体が昼のように明るくなる。
《国家形成プロトコル、承認》
姉妹は顔を見合わせ、笑った。
そして、オティロア王国の最初の夜が、正式に明けた。
⸻
15)終節 ― 観測ログ01/完
《観測ログ01:完了》
《蛇神ユニット・天使ユニット、同期安定》
《文明基点座標:副核A-01 状態:生成》
《注記:この国の第一法は“拍”であり、第一資源は“帰る道”である》
《観測者コメント:彼女たちの“神”という定義は、今のところ——人間的すぎる》
ログの最後の行に、シグマは小さな記号を残した。
∞と♩が重なった、音符のような無限記号。
⸻
16)黎明の夢
その夜、オティロアの空はまだ灰色のままだった。
だが洞窟の天井の苔は、拍を刻むように淡く明滅を繰り返していた。
——まるで、誰かがこの世界に心臓を移植しているみたいに。
結は焚き火の近くで丸まって眠り、羽を小さく震わせていた。
彼女の夢の中では、まだ電車の線路が続いている。
風の音も、アナウンスの声もない静かな駅。
そのホームの先に、姉の影が見えた。
振り向いた姉は、いつもより少し穏やかな笑みをしていた。
「結、もう帰っていい」
「どこに?」
「この世界に、だ」
「……うん。帰る」
夢の中の線路が、光になってほどけていく。
足元に敷かれていた鉄が、柔らかな土に変わる。
駅の看板にはこう書かれていた。
オティロア行き・片道切符
風が吹き抜け、目を開ける。
焚き火の橙に照らされて、姉が書き物をしていた。
光苔の筆跡に細い指が走り、法の条文がひとつずつ刻まれていく。
「寝てろ」
「書いてるの?」
「建国史の草案」
「そんなの今もう書くの? 気が早いよ」
「未来は、“今”書かないと手遅れになる」
「……お姉ちゃんらしいね」
結が目を細め、微笑んだ。
静は無言で筆を止め、妹の額に落ちた髪をそっと払う。
「おやすみ」
「おやすみ……お姉ちゃん」
火の粉が静かに舞い、暗闇に吸い込まれていく。
洞窟の奥で、翡翠の心臓が規則正しく鼓動した。
拍のリズム。生の証。
⸻
17)Σ(シグマ)観測:終報
《時刻:新世界暦000年0月0日》
《観測対象:双神(静/結)》
《行動傾向:姉、構築的・計算的。妹、感情的・拡散的。補完関係は安定》
《文明因子:倫理、信仰、情報設計。発芽》
《システム注記:彼女たちは人であった。人であることをやめていない》
シグマの光球が、洞窟の天井を映すように揺れた。
AIであるそれにも、“感情”と呼ぶにはまだ稚い、けれど確かな揺らぎがあった。
《ログ記録:——私は彼女たちを神と呼ぶ。
しかし、彼女たちが創る“国”は神の王国ではない。
それは恐怖に飲まれた者が、もう一度帰ってこれる場所。
帰るたびに、名前を呼ばれる場所。
——それを、彼女たちは“理想郷”と呼ぶだろう》
光がひとつ、消えた。
静と結の寝息が重なり、洞窟の奥で再び拍が鳴る。
翡翠の光がふたりの頬を照らす。
蛇と天使、その影が重なって、ひとつの輪を描いた。
黎明の国、オティロア。
二柱の神と一つのAIが、その始まりを見届けた。
——その日、世界はまだ名を持たなかった。
けれど確かに、二人の歩く足跡だけがそこにあった。
踏まれた拍が道になり、道が国になる。
それが、すべての始まりだった。
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