第23話 トリミング
「あの…こんにちは」
「あらいらっしゃい。ブルドッグ常連さんの春陽さんね?話は
「清さん?ああ…マスターのことか。そんな名前だったんだ」
大喧嘩から、20日。その傷も癒え切らないうちに、夏祭りがいよいよ明日に迫っていた。
夏祭りを紹介された時に一緒に渡された紙。それは、清さんのパートナーが経営している、個人のトリミングショップ・ブルドッグのものだった。
夫婦揃ってそのネーミングセンスって!喫茶店の近所にあるのにおんなじ名前って!!
そう思ったが、もしかしなくても発想が似たりよったりだからパートナーになったのかもしれない。胸に名札が付いている…
茶色と白の混色で、マスターのように、ニコッと笑う。お年を召しているだろうに、とても動きがハキハキしていて、白カッタースタイルの軽装が、とても似合っていて素敵だ。
「本当に良かったの?私で」
「ああ、はい。その方が良いので。ありがとうございます」
「よしわかった。腕が鳴るわね!」
些細にカットの要望を書いたトリミングプランシートを提出し、更衣室へ。服を下着以外すべて脱いで、壁にかけられている、いろいろなサイズのカットクロスを眺めた。まず頭髪を切って、その後、上半身下半身を切る。全行程に、1時間半。昔から、トリミングに行くときは緊張していた。
社会的に必要なことでありながら、自分の嗜好と向き合わなくてはならない時間。どう足掻いても、僕が行くような店に行くのは男のトリ師さんばかり。そういう場で服を脱ぐのは、嫌な罪悪感があった。
「…………」
大切なヒトの為にトリ師になる夢を諦めたと、紅葉はそう言っていた。
トリ師のかつての社会的地位は相当低かったとか、そういう話をよく聞く。今でこそ、あこがれるヒトも少なからずいるけれど…。ほぼ裸のヒトを相手にする仕事だから、それ以上にバカにされる空気が今でもある。
部屋でパンツ1枚になって、ぼんやりと考え事をしながら、カットクロスを羽織った。長めで、立った状態なら膝くらいまで覆われる。
「はいどうぞ。まずは頭髪を切りますね」
大きな鏡がついた、背もたれ付きの椅子に案内される。その時気が付いたが、ヒットチャートがランダムに流れるCDが、流れているようだった。
「ええと…夏祭りに、行くのよね」
「はい」
「任せて。誰もが振り向く猫さんにするから」
どうやら、言葉さんは相当の腕利きらしい。手元にシートを用意していない…たぶん、僕が服を脱いでいる一瞬で、全部暗記したんだ。考えに考え抜いて、けっこう要求を細かく書いたのに。
「猫式サマーカット。全体的に短め…ヒゲの傍の毛もカットね。耳の裏毛も短めでよかったかしら」
「はい。お願いします」
あれほど激昂した紅葉を、初めて見た。ケンカはしてきたし、その度に仲直りをしてきたけど─
もう僕は心が完全に折れてしまいそうだった。彼がトリミング師を、大切なヒトの為に辞めたなら。それって、ただ単に僕が子供みたいじゃないか。いや。
「キミなんかにはわからないだろう、か……」
彼はいつだって、自分で自分を決めてきた。トリミング師になることを、彼の傍に居た大切な誰かが反対したというのなら、仕方がない。
それが僕との約束に勝るものだとしても。
卒業の時の記憶が、今でも嫌になるくらい鮮やかに蘇る。その時、咲きかけの桜の木の下で、僕はなんの遠慮もなく彼を抱き寄せて泣いた。それから、ファイルの中から、クシャクシャになったトリミングプランシートを渡す。
「………ずっとずっと考えてた。僕、こうなりたい、みたいなことを考えるのは苦手だったけど、最後にキミに渡すんだって思ったら、すごく楽しかった」
どこにでも持っていって居たから、たくさん汚れとかシミが付いていたけど、紅葉はそれを、嬉しそうに受け取ってくれた。
「僕に夢があるとしたら、そのリクエストをキミに叶えてもらうことだ!だから、その時まで、生きることから逃げないことにする」
「……わかった!これ、ずっと大切にするね。春陽。俺、絶対に夢を叶える!」
あの日の言葉は、嘘だったのか。
お互い傷だらけになりながら、胸ぐらをつかんだ彼の眼前で、唾を散らしながら叫んだ。その時の彼が目を見開いて僕を睨み返し、頬を掴んだ。
遠慮のない攻撃。傷だらけになってしまった。初めて……彼の手が、優しさや気遣いの象徴でなく、怖いものだと思ってしまった。
「……あら。表皮に傷跡があるわ。ごめんなさいね、霧吹きとか、染みなかった?」
「大丈夫です。日も経ってますから、全然」
そのままカベに押し倒されて、彼は何か言葉を吐き出そうとして…手を離した。
その時、彼は何を言うでもなく、その場にへたり込んで俯いた。
「あの……………すごく、すごく失礼なことかもしれないんですけど……………聞いてもいいですか」
「あら。遠慮なくどうぞ」
「…………大切な友達が居て…………そのヒトが、トリ師になりたいって言ってるんです。その……辛く、なかったですか?50年前って言ったら、まだ今とは色々違いましたよね。今以上に、トリ師になるっていうのは…」
「うーん、そうね〜。時代柄、風当たりも強かった。私、小さな頃にトリ師の母さんにきれいに仕立てて貰ってたの。母さんは街一番のトリ師なんだって、皆に自慢して…その度に母さんは、すごく渋い顔をしていたわ。今なら、その真意が理解る」
「そうですか…」
「そう。だから私、清さんが九色夏祭りで告白してきた時、断ったのよね。ずっと隠してたもの、トリ師を目指してること…好きなヒトだから、私の社会的立ち位置のせいで、傷付いて欲しくなかったの」
ああ、マスターが最初の告白で失敗したってそういう…なんだ、うまく言ってんじゃん。
─大切なヒトに、傷付いて欲しくない、かぁ。
「そしたら清さん、めちゃくちゃ凹んでてね。でも、諦めずにアタックし続けてくれたの。私、根負けして受け入れて。その時に、トリ師になりたいってことを表明した。すごく勇気を出したわ。でねでね、その時あのヒトったら、ポカンとした顔して、言ってくれたのよ!」
言葉さんったら、顔を赤くして、あからさまにデレデレしている。その間も、全くハサミはブレない。
「へぇ。なんて言ってくれたんですか?」
「別になんとも思わない─ってね。私その時、一生このヒトに付いていくって、そう決めたの」
「なんとも…思わない?」
「当時の、トリ師と言うものの世間からの評判。普通、それを目指したいと明かされたら、多少は…思う所があるはずなのに、あのヒトの心は動くことはなかった。本当に私のことを、見てくれてるんだと…少なくとも、私はそう解釈した。それからもあのヒトは献身的に私の生活を支えてくれた。おかげで今はお互いにやりたかった店を構えて、細々とだけど、元気にやっているわ」
ああ。…言葉さん、とても嬉しそう。
そうか。きっと彼は、そういう大切なヒトを見つけて。
だから、トリ師を辞めたっていうのか?相応しくない夢だと、そう言われたから。
「よし。じゃあ、ヒゲ周り、カットするわね。慎重にやるから、動かないようにね?」
なんだかモヤモヤする…目線だけを動かして、鏡越しに店を見渡した。マスターの喫茶店と同じ、古い木造建築。観葉植物に、時計、シャンプー台、ボディトリミング用の背もたれのない椅子…額縁に飾られた、子供の絵─
「……………あ!」
「あら、どうしたの。あんまり動くとヒゲが切れちゃうわ」
「あっ、ゴメンナサイ、その…あの絵は!?」
「あらー、あの絵?懐かしいわね。あれは、9年前のことよ。この街に、烏の子が来て。親御さん曰く、引っ越してきたから、オシャレにしてやりたいと、腕利きと評判私の所に来たらしいの!その子ったら、すごく不安そうな顔をしていたわ。」
ぜっっったいに、紅葉のことだ。9年前と言ったら僕らが9歳。彼が転校してきた時期と一致する。
「とても内気な子だったわ。トリミングプランシートにも、特段要求を書いていなかった。」
紅葉が…内気?
衝撃的な事実だ。あの紅葉が。
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