第17話 砂の国の諜報戦──〈思念伝達〉と〈詩形コード〉
夜は砂に冷たく、砂は星の光を反射して底なしの銀を作る。
砂州連邦(サンド・コモンウェルス)。城塞都市ダグランの外縁、干上がった潅漑路の下。息を殺す影が三つ、砂の脈動と同じ速度でうねり、止まった。
「……ここから先は言葉を捨てる。上帯域、開け」
囁いたのはサレオス。暗殺総局局長の肩書きより、獣じみた静けさのほうが似合う男だ。
ひとつ頷いたヴィネ(偵察総局長)が、まぶたの裏に意識を沈める。
――〈思念伝達(マインドリンク)〉:局地回線、確立。
視界の外が、ひとつの静かな水槽のように接続される。湿度、匂い、砂の味、斜面の角度。言葉の要らない報告が一瞬で共有され、三人は互いの心拍をひとつに合わせた。
(方位、南南東。巡回二。風向き北三。砂匂いに油、近い)
(了解。下位帯域は?)
(詩形コードへ降ろす。群体、点呼)
サレオスが舌を軽く鳴らす。石を打つような短い硬音に、砂の中がざわり、と音を立てた。
甲殻。鱗粉。針。――蠅群、蜘蛛群、蠍群。ベルゼブブの低階層眷属が、砂の毛細血管からじわりと滲み出る。
〈詩形コード/第一節〉
――「砂、冷たし/星、遠し/針は沈みて、陽を待て」
(潜伏・静止・感知強化。詩に刻まれた命令が、群体の中枢へやさしく、しかし正確に沈む。)
(上帯域は静かに。下帯域が地図を描く)とヴィネ。
彼の瞳孔が細く絞られ、蠅群から上がる“点”の列が脳内に浮かぶ。門、見張り櫓、油壺、火薬庫、井戸。
蜘蛛群は溝の底を滑り、石と石の間隔を数え、綻びを見つける。蠍群は熱源のゆらぎを嗅ぎ、兵舎の寝息を針で数える。
(門扉、古い鉄。油は落ちる。――火薬庫、青砂袋二十。雷汞の匂い、薄い)
(記録)シャックス(特別副本部長)がリレー思念で受け取り、脳内に薄い硝子板の地図を重ねる。
(賄賂の匂いもする。港の関税台に香油の残滓。持ち主は……)
(名前、見えた)とサレオス。
彼は砂陰から砂陰へ、音もなく移動し、石垣の欠けへ指を乗せる。そこに微かに残っていた香が、脳裡の引き出しをひとつ開けた。
(ナフラ・ビン・ハイラム。ダグラン関税台の筆頭書記。銀線(賄賂)を通し、奴隷証紙に偽印。奴隷ルートは西港ズィーク、北の岩海アル=ハディード経由。押さえられる)
(うちの“針(秤)”を見せるか?)
(ああ。見えるで落とす)
ヴィネが〈詩形コード〉に第二節を流す。
〈詩形コード/第二節〉
――「鏡の秤(はかり)/針、真中(まんなか)/嘘は影にて、名は灯り」
(これは“見える秩序”のコード。商人・書記・港湾夫と繋がる蜘蛛糸の集合へ、善意に居場所を与える。)
砂州連邦で「秤」は神の象徴だ。
秤の針が真ん中にある国は、商いが栄える。
――ベルゼブブの国の噂は、砂にもしみている。
(港の女書記ネハリヤが揺れてる。弟が病にいる。薬代が要る)
(情けは刃の鞘だ)
(情けは使う。だが刃は鈍らせない)
三人は視線を交わさず、同じ結論に頷く。
切り込むのは今夜。殺すのではなく、――繋ぐ。
ただし、殺すべきは殺す。夜は長くない。
◇
深夜、城内。
関税台の裏口から、香油と乾いた紙の匂いが上がる。
ナフラ・ビン・ハイラムは、ろうそくの炎を指先でかき混ぜていた。炎は歪み、天井の煤に波紋が走る。
「……誰だ?」
「夜風」とサレオス。
男の背後に、影そのもののように現れ、指先で炎の首をひねる。ふっと暗くなり、すぐに別の炎が灯る。
サレオスの影が二重に伸び、目に見えないもう一つの炎を照らす。――男の心臓の火だ。
「名を呼ぶ。ナフラ」
男の肩が跳ねた。
「……誰の差し金だ。大公か、宗都か」
「王」とサレオスは短く。
砂に縁どられた薄色の瞳が、男の顔から、机、床の継ぎ目、棚の歪みへと滑っていく。
「お前は賄賂を取る。だが“針”は曲げていない。秤の針を、手で触っていない。――だから、話をする」
ナフラの喉が鳴る。
サレオスは懐から一枚の板を出した。黒い。
ブラックダイヤモンド(BD)に“L(ラウム)”の鑑定印が刻まれている。
「王の国の秤は、嘘をつかない。針を真ん中にする。寄進は自由、税は秤。お前は秤が好きだ。だから残してやる」
「条件は」
「三つ。偽印の元帳を渡せ。ズィーク港への裏ルートを開け。奴隷台帳の“名”を写せ。――名があれば、連れ戻せる」
ナフラが机の奥の板を引き出す。
それは二重底になっていて、さらに三重底になっている。
いつの時代も、帳簿はおなじだ。隠す人間もおなじだ。
だがナフラの底は、最後に**“妻の下手な刺繍”**で閉じられていた。
粗い。曲がっている。だが、丁寧だ。
サレオスは板を引き出さない。ただ一秒、刺繍に目を留め、静かに頷いた。
「お前は線を知っている。なら、こちらも線を守る」
ヴィネが思念で合図する。(女書記、きた)
扉の影から、黒髪の若い女が恐る恐る顔を出す。
「ナフラ……誰?」
「ネハリヤか。――座れ。話を聞け」
サレオスは淡々と言い、詩形コードの第三節を下帯域へ流す。
〈詩形コード/第三節〉
――「名は灯り/灯りは帰路/帰路は秩序」
(港湾の夜勤者、帳合係、書記補へ、**“名を写せ=救出対象指定”**のコードを降ろす。)
ネハリヤが震える声で言う。「……弟が、病で」
「薬は国印で手配する。前渡しだ。――だが、裏切れば家ごと焼ける」
サレオスの声は冷たい水。
ネハリヤの顔が一瞬固まり、すぐに覚悟の色が落ちた。
「わかった。書く。……名を書けば、帰ってこれるの?」
「名があれば、法で呼べる」
サレオスは短く笑う。「うちは“見える法”で戦う国だ」
◇
同じ夜、ズィーク港。
砂の風が潮の匂いを連れてくる。波は浅く、満ち引きは速い。
港の倉庫街で、蜘蛛の幕が静かに張られていた。
糸は太さを変え、湿度で色を変え、光で角度を変える。
それは**「人の流れ」が“見える化”された地図**だった。
(いい地図だ)とウァレフォル(情報)。
(奴隷の流れ、香油の流れ、塩の流れ。全部、線になっている)
港の小屋に灯りがともる。太った男が二人、談笑している。歯に砂糖。指に油。
シャックスが肩を竦める。(典型的だ)
「それより――あれは?」
レラジェ(射手)が顎をしゃくった先、暗がりに子供の影があった。
鼻に布。手首に紐。背中に“印”。
奴隷の印。
シャックスが小さく舌打ちする。(交渉は朝に回す予定だったが、これは……)
(予定は上位層の都合。現場は“今”)とレラジェ。
彼は音もなく立ち上がると、影の上を影のまま歩いた。
小屋の裏手。
子どもが縄を擦る音がした。縄は硬い。皮膚は薄い。血が砂に吸われ、黒く光った。
レラジェは手を伸ばし、縄を矢で切る。
矢は音を立てない。空気を割る音は、風に隠した。
「静かに」
子どもは声を出さず、目だけで頷いた。
レラジェは子どもの名を求める仕草をする。
子どもは胸を指さし、唇で形を作った。
――「サディク」。
レラジェは頷き、詩形コードを一拍だけ唱える。
〈詩形コード/第四節〉
――「名、灯り/灯り、道/道、港」
(救出フラグが低帯域へ降り、蠅群と蜘蛛群が即時に導線を空ける。)
その瞬間、小屋の中から怒鳴り声。
「おい、どこだ子鼠!」
扉が開く。
レラジェの矢が二本、連続して唸った。
一本はランプの芯を射抜き、火が自分だけ消える。
もう一本は男の腕の袖を壁に縫い止める。
悲鳴。
レラジェは子どもを抱え、蜘蛛の幕の向こうへ滑り込む。
追手が来る。
蜘蛛の糸は目に見えない角度で張られていて、追手の足を半拍だけ止める。
その半拍が命を分ける。
シャックスが笑わない笑みで追手の足首を引っ掛け、口に砂を押し込んだ。
「静かに。夜は砂のものだ」
◇
夜明け前、ダグラン城内。
ナフラの机の前に、名の写しが積み上がった。
ネハリヤの指は震えたが、誤字はなかった。
サレオスは写しに印を押し、皮袋に入れてウァレフォルへ渡す。
(転送。上帯域に流す)
――ベルゼブブの思念核へ。
遠い高空の輪の向こう側で、王の気配が微かに笑った。
(受領。――よくやった。戻れ)
短い。だが、十分だった。
サレオスは頷き、ナフラにもう一枚の板を渡す。
「ウソつきました札」――自首割引の札だ。
「必要になったら、これを自分の店に自分で貼れ。――生きられる」
ナフラの喉が鳴り、低く笑った。「……嫌な国だな」
「良い国だ。嫌な仕事を引き受ける」
サレオスは背を向ける。「秤の針を真ん中に戻すのは、いつも嫌な仕事だ」
◇
同刻。岩海アル=ハディード。
黒い石が波のように連なり、砂がその隙間を白い血潮のように満たす。
ヴィネは蠍群の視界を借り、熱の断層を読み解いていく。
崖の陰、岩棚の下に空洞。
そこは奴隷の一時収容所だった。
(衛兵六。犬二。火皿三)
(正面は捨てる。裏の風穴を使う)
(詩形、第五節)
〈詩形コード/第五節〉
――「風、細し/穴、歌う/影は流れて、影に溶く」
(蜘蛛群が風穴の縁に糸を落とし、静音の管を作る。蠅群は匂いのルートを切り替え、犬の鼻を**“別の匂い”**で満たす。)
サレオスは風穴から滑り込み、最初の衛兵の喉だけを止めた。
音は出ない。血は出るが、砂が飲む。
二人目は睡眠の針。
三人目は見せる。
――殺すべきは殺す。
ここは戦場だ。
そして、ベルゼブブの国は秩序で勝つが、非戦国家ではない。
鎖の輪を断つとき、サレオスはいつも数を数える。
一、二、三。
名の数になる。
指で解かれ、肩で担がれ、布で包まれ、口は塞がれない。
名を言わせるためだ。
「名」
囁く。
囁きは詩形コードの短い鍵になっていて、
解かれた者の名が下帯域に刻まれる。
救出完了=帰還ルート自動生成。
レラジェの矢が最後の火皿を射抜き、暗闇が戻る。
砂の寝息だけが、洞の内側を満たした。
◇
明け方。ズィーク港の外れの無人倉庫に、名の束が積み上がる。
そこへ、ローブの一団が静かに入ってきた。
アロケル(教育)、グレモリー(風俗取締)、ロノウェ(言語)、シトリー(労務)――軍務の顔ではないが、侵攻の第二梯団だ。
「名は灯り」とアロケル。
「灯りは読みに繋ぐ」とロノウェ。
「読む者には職を」とシトリー。
「職には秩序を」とグレモリー。
四者四様の声が、同じ場所に落ちる。
「帰る準備をする」
アロケルが短く告げると、寺子札が並んだ。
サディクが、目を輝かせる。
筆を握ることを許された手は、自分の名を一番最初に書く。
それがベルゼブブの国の流儀だ。
◇
日中。
砂州連邦の宗都サフランの大市に、奇妙な噂が走り始めていた。
「港で“名”を写す悪魔が出た」
「悪魔の秤は針が真ん中にある」
「ウソつきました札を自分で貼ると罪が軽くなるらしい」
噂は、笑いと恐れと希望の奇妙な混合物を作る。
それが、見える秩序の毒だ。
毒は、ゆっくり効く。
だが一度回り始めると、切れ味は剣に負けない。
◇
午後。
宗都サフランの琥珀色の宮。
砂王国の摂政、マルヤム・バヌ・サフランは、銀糸のヴェールの下で目を細めた。
報告官が膝をつく。「ダグランで、不穏な流れが」
「“不穏”は、誰にとってだい?」
「……我々に、と」
「それは違う」
マルヤムは指先で琥珀を回し、ゆっくり笑った。
「不穏は、奴隷にとって穏やかであるかもしれない。秤の針が真ん中に戻るなら、商いには好い」
「しかし宗庁は――」
「宗庁は宗庁、王都は王都、港は港だよ」
彼女は涼しく言い、使者の名を二人口にする。
「ハディール港長、サイード宰相補。呼びなさい」
彼らは、敵ではない。
だが、友でもない。
線で測るのだ。
針が真ん中にある方へ、砂はいつだって流れる。
◇
夕刻。
ダグラン城の屋上で、サレオスが小さな杯を回していた。
中身は薄い甘酒――胃に優しいやつ。
ベルゼブブが気に入っている。
(“名”はどれくらい戻る?)とレラジェ。
(半分)とウァレフォル。
(半分?)
(法が届く範囲だけ、半分)
(足りないな)
(次の半分を作るのに、俺たちはいる)
ヴィネが空を見上げる。
遠い高空を、黒い輪がゆっくり巡っている。
ベルゼブブの眷属の輪。
王の思念が、薄い音で拍を刻む。
(報告を)
(済)
短いやり取りに、気配が微かに笑った。(よくやった。胃薬、飲んで)
サレオスは苦笑する。(王の趣味は、俺の胃に悪い)
レラジェが肩をすくめる。(生ぬるい甘酒、もう一杯?)
ヴィネが淡々と告げる。(明日、宗都の“歌”に入る)
歌――詩形コードの最上位。
都市そのものを**“合唱”にして流れを変える**、ベルゼブブ式の都市侵蝕だ。
鐘の高さ、露店の掛け声、祈りの呼吸、井戸の滑車の軋み――音で染める。
秩序は、目だけではない。耳にも宿る。
◇
夜。宗都サフラン。
大市の広場には、千の灯り。
祈りの時間。
歌唱僧が声を合わせると、空気の密度がひとつ増える。
その下で、見知らぬ楽士が小さな笛を吹いた。
フェネクス――詩人委員長。
彼の笛は、詩形コードの種を乗せる。
〈詩形コード/第六節〉
――「秤、真中/針、静か/名は灯り、灯りは帰路」
(祈りの融合帯に、商いの律を忍ばせる。宗教と市場は本来、敵ではない)
周囲の露店主が、ふっと顔を上げる。
“値札の字を太く”――しなきゃ落ち着かない気がする。
“秤の針を真ん中に”――しなきゃ居心地が悪い気がする。
人は、見られると変わる。
そして、聞かれると変わる。
◇
夜半。宗庁別館。
砂王国最高学匠(法学僧)サービトは、机上の紙束に目を細めた。
「悪魔の布告、七条。――ふむ」
彼は宗庁保守派の一角だが、秤は好きだ。
針が真ん中にある秤は、法学に似ている。
「祈り場不可侵、悪くはない。暴力・略取の禁、当然だ。聖職者の名札携行、……ふむ」
扉が叩かれ、マルヤム摂政が入ってくる。
「学匠。あなたに敵を見つける才はあるかい?」
「敵、とは」
「愚かさという名の敵さ」
彼女は薄く笑う。「悪魔に乗る愚かさもあれば、悪魔を憎むあまり秤を壊す愚かさもある」
「針を折るのは容易い。しかし真ん中に戻すのは――」
「嫌な仕事だね」
マルヤムは頷き、指で琥珀を回す。
「誰がやる?」
静寂。
サービトは紙束の端をそっと揃えた。
「私がやる」
彼は、敵ではない。
だが、友でもない。
針で測るのだ。
◇
明け方、ダグラン外縁。
砂丘の陰で、サレオス達は撤収前の**最後の“歌”**を確認していた。
詩形コードの第七節は、帰路を作る。
〈詩形コード/第七節〉
――「帰路、赤/赤は道/青は水」
(逃げ道=避難導線を下帯域に刻む。港、井戸、門、全ての“赤”が見えるようになる)
子どもたちが、口ずさむ。
「あかはみち、あおはみず」
砂の国の言葉で。
ベルゼブブの国の言葉で。
二つで一つの歌。
レラジェが背中の弓を撫でる。「次は?」
ヴィネが方位磁針を収める。「宗都の“合唱”の本番。――それと、北縁の補給線を切る」
ウァレフォルが名の束を抱えたまま笑う。「名の戦果は、最高司令(王)の胃に優しい」
「……王の胃はいつだって泣いてる」サレオスはため息を吐いた。「だが、顔は平気だ」
砂の向こう、黒い輪が薄く明るむ空を横切った。
ベルゼブブの眷属の輪。
音もなく、しかし確実に――拍を刻む。
(帰ろう)
(帰る)
(まだ、終わらない)
砂は音を飲み、足跡を消す。
だが、名は残る。
名は灯りだ。灯りは帰路。帰路は秩序。
どこか遠くで、祈りの歌と市場の呼び声が同じ調子で重なった。
砂の国の空気が、ほんの少しだけ変わる音がした。
◇
帰還報告――政庁。
広場の布告板に、新しい抄録が貼られる。
「ダグラン・アル=ハディード・ズィーク連絡線における“名の救出”報」
法は短く、淡々と。
フェネクスはその端に、小さな詩を添えた。
名は灯り
灯りは帰路
帰路は国
布告板の前で、リナが小声で読み、カイが指でなぞる。
ミルドは震える手で、また小さく「ありがとう」を書き足した。
誰にも気づかれないくらい小さい。
でも、確かにそこにある。
――秤の針は、少しずつ真ん中へ。
剣の音が遠のいたわけじゃない。
むしろこれから、剣は増える。
だけど、剣より前に線が引かれた。
見える線。
それが、戦の勝ち方になる。
そして王の「胃薬」は、いつものように、静かに用意された。
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