第10話_ありたい姿

燈たちはカウンター席に腰を下ろす。

木製のテーブルは長年使い込まれた艶があり、手に触れるとどこか懐かしい温もりが伝わってくる。


「さぁ~~って作るぞ~~!いつものでいいよね?」

イナバが伸びをして大きく声を出すと、厨房の空気がふっと活気づく。


管理人は肘をつき、無造作に「あぁ、頼む」と頷く。

その常連らしい所作に、小さな誇りと安心感が滲んでいる。


「あいよ~!」

イナバは元気よく返事をすると、手早く準備に取りかかった。

包丁がまな板に当たる「トントン」というリズム、火の音、鍋が唸る前の静かな期待感――店中に小さな演奏が生まれる。


燈は怖々と先ほどのあだ名を試してみるように口を開く。

「あ、あの……つきちゃ――」


すると、管理人がむっとした顔でこちらを向いた。

「おい……お前もか」


慌てて言い訳する燈。

「べ、別にいいじゃないですか……管理人さんのこと、なんて呼べいいかわからなかったし……」

友達みたいに呼んでみたかった、その心根が声に滲んでいる。


「それに……かわいい名前だし」


管理人はじっと燈を見つめ、目を細めてからわずかに顔を背ける。

「かわいいって……『管理人』で十分伝わるだろ」

強がっていたが、頬のほんのりとした赤みが本心を透かしていた。


鍋の中で何かが弾けるような音がして、湯気がふわりと立ち上がる。


イナバは手を止めずに、軽やかに会話に加わる。

「うんうん、かわいいよね~!ねぇ、そんな堅苦しいのじゃなくて、あだ名で呼ばせてあげなよ~」

その声色には燈の気持ちをそっと後押しする優しさがある。


管理人はやれやれと肩を竦め、ぷいっとそっぽを向く。

「ったく……もう好きにしろ」


イナバはにやりと笑い、さらにからかうように言葉を乗せる。

「そんな事言って、本当は嬉しいんじゃない?つきちゃんは素直じゃないなぁ~」


管理人の顔がひきつる。

「うるさいぞクソウサギ。全身の皮という皮を剝いでやろうか?」

口調は荒いが、目はどこか楽しげだ。


「うへ~容赦ないなぁもう!」

イナバは大げさに悲鳴をあげ、鍋の前で湯切りを始める。

湯切りの水音がパシャッ、パシャッと場を和ませ、湯気がほのかな月光のように舞う。


「つ、つきちゃん……それで質問なんだけど」

燈はまだ呼び慣れていないその名前を恐る恐る口にする。

管理人はちらりと視線を寄越すが、あからさまに目を合わせようとしない。


「……なんだ」


「なんでイナバさんには……うさ耳が生えてるんですか?」


管理人はさも当たり前かのように答える。

「んなもん……生やしたいから生えてるんだろ」


「は、生やせるんですか!?」


「冥府に住む魂の姿はな、それぞれが『こうありたい』と思う姿へ自然と変化するんだ」


イナバが、ちょうどタイミングを計ったように振り返る。

両手に二つの大きなどんぶりを持ち、にっこりと笑った。


「ちなみに僕の場合はね~~かわいいから!この耳お気に入りなんだよね~!」

自慢げにぴょこんぴょこんと動かして見せる。

その仕草に、思わず燈の口元が緩む。


(ありたい姿……)

燈はふと自分の手を見つめる。


――もし自分も冥府に染まったら、どんな姿になるのだろう。

何者にもなれないまま、ただ漂うことになるのか。

それとも、なりたい自分を見つけられるだろうか。


胸の奥に、小さな火がともる。


「というわけでお待たせしました~~!」

イナバの声がその思考を断ち切った。


「冥府一の料理『月見ラーメン』だよ!!」

どんぶりがカウンターに置かれた瞬間、ふわりと湯気が舞い上がる。


それはまるで、夜空に淡く立ちのぼる白い雲のようだった。

透き通った黄金のスープの中央には、満月を思わせる卵が静かに浮かんでいる。

スープの表面には、光の粒が瞬き、ほんのわずかに甘い香りと潮のような清らかさが混じり合っていた。


「おいしそう……」

思わず漏れた言葉に、イナバが満足げに頷く。


「でしょでしょ~!ほら、冷めないうちに食べちゃってよ!」

両肩を軽く叩かれ、燈は少し照れながらも箸を取る。


隣の管理人はすでに、箸ではなくフォークで器用に麺を巻き取り、淡々と食べ進めていた。


燈は一呼吸置き、そっと麺を口へ運ぶ。

細く金糸のような麺が、舌の上をすべり抜ける。

想像以上にしっかりとした歯ごたえ。

スープの塩味と旨味が一瞬で広がり、胸の奥まで熱が染み込むようだった。


「どう?」

イナバが期待に満ちた目で尋ねる。


燈は顔を上げず、ただ小さく笑って言った。

「箸が、止まらないです……」

自分でもびっくりした様子で、こんな経験は初めて。


「嬉しいこと言ってくれるねぇ〜!替え玉もあるよぉ〜!」

イナバは満面の笑みで両手を腰に当て、ぴょこんと耳を動かした。


「おい、まずはゆっくり食わせてやれ」

呆れたように言いながらも、管理人の口元にもわずかな笑みが浮かんでいた。


その笑みは――ほんの少しだけ、冥府の夜を明るく照らした。

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