第8話_ツクヨミ
階段を降りきった先で、燈は足を止めた。
「ちょ、ちょっと……早い、ですよ……!」
膝に手を置き、肩を上下させながら息を整える。
管理人は呆れたように振り返り、
「お前が遅いんだよ。もう少し運動しろ」
そう言いながら、燈の尻をぺちぺちと叩く。
「うひゃっ……!?な、なにするんですか――!」
反射的に身を縮める燈。
その拍子に顔を上げた瞬間――目の前の光景に息を呑んだ。
「わぁ……!」
そこに広がっていたのは、交差点を行き交う無数の人々。
誰もが笑い、談笑し、まるで生前の街をそのまま切り取ったよう。
頭上には幾重にも重なるビル群がそびえ立ち、
ガラスの壁面が青い光を反射して夜空のように輝いている。
「ここが、冥府『ツクヨミ』だ。なかなか綺麗だろ?」
管理人は腰に手を当て、どこか誇らしげに言う。
「……きれい。すごく、きれいですね」
燈の瞳に映るのは、冷たくも美しい光の街。
どこか懐かしい、けれど確かに現実とは違う――そんな矛盾した感覚が胸をくすぐる。
「っと、そうだ。燈、これ持っとけ」
管理人はジャケットの内ポケットから何かを取り出し、燈の掌に置いた。
それは翡翠色に輝く勾玉だった。
表面は少し歪で、ところどころ指の跡のような削れ跡がある。
それがむしろ温もりを感じさせた。
「これは……?」
「駅の外は、完全なる魂の世界だ。それを持っておけば、生者も肉体を維持できる」
「もし、失くしたら……どうなるんですか?」
嫌な予感を抱きつつ、恐る恐る尋ねる。
「徐々に肉体が摩耗して、空間に溶ける。やがて死ぬだろう」
淡々と、まるで天気の話でもするかのような調子で告げた。
「ひぃっ……!」
そのあっけらかんとした言い方が、逆に恐ろしい。
「まぁ安心しろ、私が近くに居ればそれ無しでも問題ない。その勾玉も私が作ったものだからな」
「だ、大事に持っておきます……!」
燈は慌ててそれを握りしめた。
掌に伝わる微かな温もりが、奇妙に心地よい。
「それで、一体何を食べに行くんですか?」
「白兎亭の『らーめん』という料理……それがとびきり美味いんだ。知らないだろう?」
自慢げに胸を張る管理人。
あまりの自信に押されて、「知っている」とは言い出せなかった。
「ラーメンですか……おいしそうな名前ですね」
わざとらしく笑う燈。
「そうだろうそうだろう。さぁ、こっちだ!」
管理人は再び燈の手をつかみ、まるで子どものように走り出した。
「ちょぉっ……!また走るんですかっ!?」
勾玉を落とさぬよう、必死に手を握りしめる。
彼女の背中を追いながら、燈は少しだけ笑っていた。
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