二つの手のひら / Las dos palmas
午後2時19分。スペイン、カンタブリア州。
東京のガラスと鋼の峡谷を飛び立って18時間、アリサはレンタカーのハンドルを握り、まるで時間の流れ方が違う世界に迷い込んでいた。
スペイン北部のカンタブリア地方は、「緑のスペイン」の名の通り、雨に濡れた牧草地が丘陵地帯に広がり、石灰岩の白い崖が時折その緑を突き破っている。大西洋からの湿った風が、オークや栗の森の匂いを運んできた。
約束の場所は、プエンテ・ビエスゴの村にある、石造りの壁が蔦に覆われた小さなカフェだった。アリサにとって、もちろん初めての場所であるが、どこか昔の父との夏の思い出が仄かに蘇る、そんな懐かしさを覚える村だった。
アリサが中に入ると、奥の席で地元のチーズをつまみに、小さなグラスでブランデーを飲んでいる老人が、探るような目で彼女を迎えた。マテオ・ヴァルガス博士。この谷の土と骨の声を、誰よりも長く聞いてきた男。
「ドクター・アリサ。ようこそ、カンタブリアへ。」
アリサはマテオに自己紹介をしようとしかけたところ、早々に博士に遮られた。
「ドクター・アリサ、君の指導教官だったミラー教授から、かつて手紙をもらったことがある。『いつか東の国から、私の常識をひっくり返すような才能が現れるぞ、マテオよ』とね。まさか、AIを連れてくるとはな」
アリサは少し不思議な顔をした。ふと自分の手に持つタブレットを見ると、そこに満面の笑顔と自己紹介の文字を写したコスモスを見て、苦笑いしながらタブレットをそっと隠し、マテオの前の席に腰を下ろした。
「あはは⋯、本当にすみません博士。初めまして、アリサです。教授のお知り合いと聞いて、ご紹介をお願いしたのです。お時間をいただき本当にありがとうございます。ただ、ここは確かにAIから知らされて来ましたが、見るべきものがこの土地にあると判断したのは、私ですよ、マテオ博士。」
マテオは鼻を鳴らした。
「AIは確率を教えてくれるかもしれん。だが、物語は教えてくれんよ。まぁいいさ。さあ、行こうか。趣旨はそのAI君がかしこまったメールを大量に書いてきたからね⋯全て理解しているよ。君とそのAIが何を知りたいのか、この谷の主に直接聞いてみるといい」
彼に導かれ、アリサは、日本を離れ約1日以上が経過し、ようやく「エル・カスティージョ洞窟」の入り口に立った。
ひやりとした、数万年の時を吸い込んだ空気が、彼女の肺を満たす。
ヘッドライトの光が照らし出す闇の奥から、滴の落ちる音が、まるで古代の時計のように響いていた。
洞窟の最奥にあるのが、通称「手のひらの間」。
ライトの光の中に、壁一面を覆う無数の赤い手の輪郭が浮かび上がった。数万年前に生きていたものが顔料を口に含み、自らの手を壁に当てて吹き付けた跡だ。
私たちが一度は教科書で見たことのある、あの手形だ。最近の研究では、ネアンデルタール人のものとする話も聞かれる、正に数万年の奇跡の痕跡。
「ドクター・アリサ、初めて直に見た感想はどうかな?」
「これは、…祈り、でしょうか」
アリサはほとんど囁くように言った。
「ただの記録ではない。何かを必死に伝えようとしているよう…」
アリサは、自らの研究目的をマテオに自らの口で語った。時折、コスモスが介入しそうになるのを眉間にしわを寄せて防止しているのを見て、マテオは密かに愉快だった。
ホモ・サピエンスのあり得ないほどの幸運。そして、この土地のかつての支配者、ネアンデルタール人の不可解な敗北について、アリサは語りだす。
「幸運、か」
マテオは壁画から目を離さずに言った。
「そうか、やはりそうなのかもしれん。ネアンデルタール人の消滅は何か不思議な背景があった。謎はまだ沢山あるのだ。だからこそ、私は異端の説を追い求めているんだ。主流の学会では、誰も本気で耳を貸そうとしないがね」
彼は、壁の一角を指差した。
「私は、一部のネアンデルタール人と我々の祖先が、敵対するのではなく、共に生きた特別なコミュニティがあったと信じている。非常に稀だが、平和的な交配が行われた聖域のような場所が。そして、我々の中に彼らの遺伝子が残った最初の起点が、この場所だったのではないかと…ね。」
そのロマンを帯びた仮説は、とても味わい深い話であったが、アリサが何かを言いかけるより早く、コスモスの冷静な声が響いた。
アリサはタブレットをマテオに見せる。
《その仮説には、複数の矛盾点が存在します、ヴァルガス博士》
古代の洞窟に響く、滑らかすぎる合成音声。マテオは眉をひそめた。
「…神聖な場所に、機械の冷静な声を響かせるのは、あまり心地の良いものではないね。」
マテオは白髪に覆われている半ば引退した人生の大先輩であるが、自分の仮説を真っ向から否定されたことに、少し感情が揺さぶられていた。
コスモスは構わずに続ける。
《当時の両種族の文化的水準、食料をめぐる競合、そして何より、大規模な協調を可能にする脳の構造的差異、言語的特異性。それらを考慮すると、友好的なコミュニティが継続的に存在した確率は0.03%未満です》
アリサは慌てて間に入った。
「博士、マテオ博士、聞いてください。コスモスは世界最高のAIですが、あなたの長年の経験からくる直感も、同じくらい重要です。あくまで、可能性の話ですから⋯」
《では、もう一つ。もし友好的な関係があったなら》
コスモスは続けた。
《その後の急激な気候変動の際、なぜ両種族は協力して危機を乗り越えなかったのですか?私のシミュレーションでは、両者が協力した場合の生存確率は60%以上も向上します。しかし、そのような協力の痕跡は、一切発見されていません》
アリサ、マテオ、そしてコスモス。三者の間に、滴の音だけが響く、重い沈黙が流れた。
その沈黙を破るように、アリサはふと立ち上がり、再び赤い手形の壁画の前に立った。
アリサは行き詰まると、先ずは立ち上がり、新たなことを自由に思索し、周りの空気も和らげる、そんな癖というか、時に特技になる行動パターンがあった。
数万年の時を超えて、自分と同じ「人間」がここにいた。その奇跡に、彼女は静かな感動を覚えることに心を寄せた。
彼女は、壁画の一つの手形に、そっと自分の手のひらを重ねようとした。
その瞬間だった。
《ドクター、そこでストップ。そのまま、5秒間静止してください。動かないでください》
コスモスの声は、いつになく切迫していた。
タブレットのカメラが、アリサの手と壁画の手形を、ミリ単位でスキャンしていく。
《…信じられない…解析完了》
コスモスの声に、初めて「驚愕」という感情のような響きが混じった。
《壁に押された62個の手形。その骨格的特徴は、これまでの研究でテキストデータがほぼありませんでした。そのため、初めていまその手形全体の画像をまとめて解析した結果、41個はホモ・サピエンス、21個はネアンデルタール人と断定しました。》
アリサとマテオは、そのコスモスの話が直ぐに理解できない様子だった。
コスモスは続ける。
《⋯これ自体も不可思議なのですが、しかし、問題はその配置です。二つの種族の手形が、意図的に、交互に、そして協力して一つの構図を形成しています。これは、人類史上で初めて確認された、両種族による共同創造の痕跡です》
マテオが息をのむ。アリサも言葉を失った。
《…論理矛盾です》
コスモスは続けた。
《私のデータベースでは、彼らは大規模な協調が不可能。しかし、目の前の事実は、彼らが『アート』のような極めて高度な象徴的活動を共同で行ったことを示している。結論を導き出すには、決定的にデータが…私のナレッジの前提が、間違っていたと推定されます》
コスモスがアリサの前で初めて、自らの誤りを認めた瞬間だった。
アリサは、震える声で言った。
「そうよ、コスモス。彼らは協力していた⋯でも、なぜ…?なぜ、共に危機を乗り越えられなかったの?その理由を解析して!」
コスモスは、アリサからの新しい指令を受け、猛烈なスピードで再計算を開始した。
《…解析を開始します。警告:この発見は、人類史の定説を覆します。両種族の関係性が、従来のモデルでは説明不能である可能性。それは、人類の進化の過程そのものに、未知の外的要因…すなわち『指導者』あるいは『調停者』が存在したという仮説の確率を、危険なレベルまで引き上げます》
アリサは、この瞬間に自分がパンドラの箱を開けてしまったのではないかと、妙な不安感と興奮を覚えた。
彼女の旅は、もはや単なる歴史の謎解きではない。人類の創造と進化の中にある何か得体のしれない存在に、人類史で初めて迫ろうとしていた。
「…指導者? 調停者?」アリサはコスモスに問い詰めた。
「コスモス、それは何? 説明して!」
《仮説の確率が上昇したに過ぎません》
コスモスの声は、変わらず冷静だった。
《結論を導くには、コンテキストが決定的に不足しています》
アリサ、マテオ、そしてコスモスは、三者揃って再び沈黙した。
目の前にある、数万年の時を超えた二種族の共同作業の痕跡。しかし、その「なぜ」が分からない。友好的であったなら、なぜ片方だけ滅びの道を歩んだのか。
洞窟の冷たい空気が、解けない謎の重さとなって彼らにのしかかる。
その重い沈黙を破ったのは、マテオの穏やかな声だった。洞窟の入り口から差し込む光が、夕暮れのオレンジ色に変わり始めている。
「まあ、数万年の謎が、一日で解けると思う方が傲慢だろう」
彼は優しく笑った。
しかし、アリサはマテオの目がそっと涙で溢れようとしているのを、静かに感じ取った。
「腹が減っては戦はできん、と日本では言うそうじゃないか。 我が家の近くに、この土地自慢のチョリソと、美味いシードラを出す店がある。今夜は私の奢りだよ、ドクター」
その人間的な温かさに、アリサの張り詰めていた緊張がふっと緩んだ。
「そうですね…私、そういえばとてもお腹空いちゃった!」
彼女は自然に笑みをこぼし、感謝を込めてマテオに右手を差し出した。
「今日は本当にありがとうございました、博士。あなたがいなければ、何も分かりませんでした。素晴らしい一日でした」
マテオがその手を力強く握り返した、その瞬間だった。
《ドクター!》
コスモスの鋭い声が洞窟に響いた。
《その行為を、維持してください。ドクター・ヴァルガスとその手のひらを重ね合わせた、その状態を》
アリサとマテオは、握手をしたまま、何が起きたのか分からずに固まる。
アリサのタブレットのカメラが、二人の手を様々な角度からスキャンしていく。
コスモスの声が、今度は確信に満ちた響きで洞窟に響いた。
《その『握手』という人間の行為。それは、信頼、合意、あるいは条約を示すための、人類における普遍的な象徴的ジェスチャーです》
《壁画の手形…あれは、ただ並べて押されたものではない。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が、互いの『協力』と『合意』を象徴する儀式として、古代の握手を交わした痕跡である可能性があります…》
《このモデルを適用した場合、矛盾したデータセットは、98.2%の精度で統合されます》
コスモスの言葉が、啓示のように洞窟に響き渡る。
アリサとマテオは、互いの手を見つめた。今、自分たちがごく自然に行っているこの挨拶が、遥か数万年前、全く異なる二つの種族が、生存をかけて交わした約束の形だったというのか。
二人は、握手を交わしたまま、驚嘆の顔でお互いを見つめ合っていた。
彼らは、人類史の最も深遠な秘密の、その入り口に、今まさに立ったのだ。
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