第10話 雲は泣く・一

 月見。その言葉に自ら誘われるようにして、かかとが、脚が動く。無意識のまま踏み出した足は、はやる気持ちに応えるように速さを増す。


 風を切る、汗が飛ぶ、もつれる足に鞭打ち、駆ける。焦りが胸を縛りつけて、息が詰まって呼吸は不規則で、かひゅっと鳴る喉の音を、しかし耳は捉えない。

 一樹には、“雲”を引きとめる術も何もなかった。ただ、すべてが手遅れになる前にもう一度でも会いたい思いが、一樹を突き動かしていた。


 彼の最後の言葉を思い出す。雨音は徐々に大きくなり、本来の激しさを取り戻そうと武者震いしている。

 山を登り、枝葉に腕を切りつけられて、彼と初めて会った日を思い出す。あの時とはまったくの逆だ。さあ、もうすぐ抜ける、ひらけた場所に、そこには月見がいるはずで──。


 ──叫んだ。彼の名前を、ひどくかすれた声で。

 しかし、そこに姿は見えなかった。


 声だけが、木々の間に吸い込まれて消えていった。一樹が間に合わなかったことは明らかだった。それでも、別れを、祈りを、惜しむはずはなかった。……


「月見……月見!今なら、君の言ったことが分かる。……僕は、君になりたかった。空気に溶けこんで消えてしまえたらなんて、願っていた」

 濡れた若草が足首をさする。

「そして君は誰よりも人間になりたかった、互いに互いを望んでいたんだ、そうだろ」

 吸いこんだ風は冷え切っている。

「だけれどそれを叶えちゃあならない、いや叶うことはない。僕は僕、君は君で、それ以外はありえないからだ。だからこそ僕達は僕達でいられるんだ」

 灰色の雲は重なり合い、灼熱の日光を遮って風を呼んだ。

「……僕は、もう僕として、生きるより他がないのだから、精一杯やろう。だから、君も、君で生きてくれ」

 さめざめと降る雨は、まるで雲が泣いているようだった。


「じゃあな、月見、またいつか!」

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