第42話「囁(ささや)き渡し、水の骨」

 朝の畑は、吸うたびに薄くふくらみ、吐くたびに浅く沈んだ。

 二本の見張り塔は低く歌い、結界布は夜の冷えを二度三度やわらげる。圧計の針は眠る子の胸みたいに浅く上下し、土の匂いは甘い。

 「今夜、“囁(ささや)き渡し”だ。――水が言葉めく浅瀬」

 アレンが鞘を肩に、短く言う。

 霧の廊(ろう)で耳を“置く”術を立てたばかりだが、ここでは水面が“声”に化けて呼ぶ。空鈴(からすず)は波で丸められ、戻りが“さざめき”に散る。耳は騙され、目も水の光で嘘をつく。――なら、骨で聴き、足裏で読む。


 昼のうちに準備を整えた。

 小布二枚、短杭四本、銀糸の水管。“息の帳面”、薄紙、白粉(しらこ)。触れ醒印(さめいん)と配り石、骨聴(こつちょう)帯と顎棒(あごぼう)も束ねる。

 新しく三つ。

 ひとつは“水簀(みずす)”――掌幅の簀(す)を細紐で束ねた帯。水面へ斜めに置くと、足裏の“返り”が簀の目で整う。

 ひとつは“水緒(みずお)”――足袋の底に薄い革片を挟み、足裏で“ぷつ/ふつ”と水の返りを二段に感じ分ける細工。

 最後は“水骨(すいこつ)札”――木薄片に浅い波形の刻み。顎棒で噛むと、胸骨(きょうこつ)に“返りの周期”が薄く写る。

 ミリは刷り間(ま)で『水の帯・触読図』の板を刷っていた。

 「夜に“読む”より“触る”。――丸と波線で“渡れる帯”を描きます」

 「頼んだ。字は短く、図は大きく。湯気は少し」

 エリナが笑い、俺は畦を一筋締め、塔の縄の毛羽を焼いて整えた。


 夕刻、合流点を抜け、岬を巻き、棚田の“揺動の道”を段々に渡る。

 文の窪(ふみのくぼ)の“語りの床(ゆか)”をひと撫でし、霧の廊の端で耳簾(みみすだれ)を一度だけ確かめる。湯気は少し、香りは弱く。

 やがて、水音が低くかすれ、森の間から川が姿を現した。

 “囁き渡し”。

 浅い瀬が広く、底の石が平らに並ぶ。ところどころに白い泡が“声”を立て、言葉らしき断片が耳の端でほどけては結び直される。

 > “…こちら…こっち…こっちだよ…”

 > “…早く…早く…”

 耳は騙される。急がされる。――急げば足は跳ね、跳ねれば返りは乱れ、返りが乱れれば“欠け”を踏む。


 「《みはしら》を“水骨(すいこつ)”へ換える」

 俺は顎棒を軽く咥え、水骨札を歯の裏に当て、骨聴帯を頬骨へ回した。

 段取りは《無・名・時》、だが“時”は空気ではなく水で返す。

 > 《無》=喉を落として胸骨の浅棚で抱く。顎棒に“息の重み”を薄く載せる。

 > 《名》=声は出さず“骨の名”。舌根で輪郭だけ作る。

 > 《時(水時)》=足裏の“水緒”で“ぷつ/ふつ”を拾い、手首で水簀を押して波形を返す。返りは骨で聴く。

 さらに一つ、“頁打ち”は波で――

 > 《頁打ち(水)》=簀の目一つ分だけ前で、掌を“置く”。切らず、押し返さず、撫でる。

 「耳は置く。――水で聴く」

 アレンが短く言い、エリナは鎖骨を二度、軽く叩いた。


 最初の一歩。

 吸って――置かない。

 水簀を斜めに置き、水緒の“ぷつ”で足裏が浅い返りを拾う。

 (ここ)

 骨の名は胸の内で輪郭だけを持ち、顎棒が“とん”と薄く震える。

 掌で簀の目を一つ押し――《水時》。

 半歩。

 耳の“こっちだよ”は、ただの泡に還る。

 川は、静かになった。


 二歩目。

 流れの筋が“早口”になり、白い泡が言葉の拍に似る。

 足裏は“ふつ”――中返り。

 「頁打ち(水)」

 俺は簀の目を二つ分だけ速く撫で、顎棒へ返りの周期を短く写した。

 胸骨の棚が“在る”で受け止め、足は半歩を失わない。

 半歩。

 白い泡の“早く”は、ただの早い波に戻る。


 三歩目。

 底石の並びが悪く、返りが“踊り戻り”に割れる。足はつい跳ねたくなる。

「“重ね印(水)”」

 エリナが水簀を掌幅で二連に置き、俺は足裏で“ぷつ→ふつ”と連続で拾い、アレンは手首で“水時”を二連。

 半歩。

 返りの踊りはほどけ、波は帯に通る。


 渡りの中ほどで、川が低く囁く。

 > “…名を言え…”

 > “…言ったら、渡し守…”

 名を剥(は)ぐ囁きだ。

 「《無・息・水時》」

 俺は名を胸に畳んで息の形へ。骨の名すら薄くし、喉を落とす。

 水緒は“ふつ”。

 水簀を撫で、顎棒で波形の刻みを“在る”へ返す。

 半歩。

 囁きは、川の底へ戻っていった。


 浅瀬の端に、古い杭穴が二つ、斜めに残っていた。かつて“呼び込む”渡しをした痕だろう。

 片方は“早口(早返り)”を、片方は“引き延ばし(遅返り)”を呼ぶ癖。

 「“配り石(水)”で癖を逆撫でる」

 アレンが早口の穴へ筋(《出》)ではなく点(《入》)を、遅返りの穴へ点ではなく筋を置く。

 俺は簀の目を一手前で撫でて《頁打ち(水)》、エリナは骨の名を“薄刃”にして輪郭だけを置いた。

 半歩。

 返りは均され、浅瀬は“楽の帯”に落ち着く。


 渡り切った対岸で、小さな掲示を三枚、杭に結わえる。

 > 『囁き渡しの規(のり)』

 > 一、耳は置く。声に応じない。

> 二、《無・名・水時》/“名剥ぎ”気配では《無・息・水時》。

> 三、水緒“ぷつ/ふつ”で浅中を読む。

> 四、水簀は斜め。頁打ちは簀の目一つ手前で撫でる。

> 五、配り石(水)――点=入/筋=出。癖は逆撫で。

> 六、湯気は少し。香りは弱く。

 > 『水骨(すいこつ)・触読図』

> ・顎棒+水骨札=返り周期を胸へ。

> ・骨聴帯=手首→頤→胸骨。

> ・子は影、小鈴不要。老は息、布鈴。

 > 『宵の道・水辺接続』

> ・触れ醒印=二↔三歩。

> ・水辺では“水時”。

> ・耳簾は不要。耳は置く。

 丸と波線、点と筋で描き、触って読めるようにした。


 そこへ、旅一座の呼び込みの女が、若い踊り手と客二人を連れてやってきた。

 「“長く踊れる市”から“長く語れる席”へ通ってきたけれど、夜に川で足が止まる人がいる。――渡りの“楽”を売りたい」

 「売るのは“早さ”じゃない。続けられる“楽”だ」

 アレンが短く言い、俺は“水の帯”を『暮らし図』の余白へ朱で重ねる。

 > 『水の帯(初)』――浅返り=濃線/中返り=中線/踊り戻り=二星。

 > ・二/三歩で触れ醒印。

> ・頁打ち(水)点。

> ・配り石(水)点と筋。

 女は看板を書き換えた。

 > “長く渡れる 宵の渡し”

 声は張らない。届けばいい。


 渡し場に“息の腰掛け”を二つ置き、影印板の“水版”を吊るす。

 > 『息の数の地図・水版』

> ・足裏の“ぷつ/ふつ”を丸の大小で。

> ・頁打ち(水)を点。

> ・読むときは、息で読む。声は出さない。

 子は“ぷつ”の丸を指で辿り、老は布鈴の戻りで息の深さを確かめる。

 「言えることは、守れることだ」

 エリナが小さく笑い、女将は喉に指で印を置いた。

 「祈りは短く、息で長く」


 夜半、宵の道を川まで延ばす。

 触れ醒印の丸石を浅瀬の手前で二歩、瀬中で三歩、対岸で二歩。

 配り石は“入→出→入”。

 水簀は巻いて柱へ残し、必要な者が下ろして使えるように紐をつけた。

 > 『静かな道・宵(水)』

> ・耳は置く。

> ・水時/頁打ち(水)。

> ・二↔三歩で触れ醒印。

> ・配り石(水)点→筋→点。

> ・湯気は少し。香りは弱く。


 細い合流点で、三つの影が現れた。

 ――勇者隊。

 カイルが顎棒で“とん・とん”と二つ、顎と胸で“返り”を合図する。

 俺は水骨札を歯の裏に当て、“とん・とん・とん”――三で“瀬中”。

 ルーナは喉を落とし、《無》を薄棚で抱き、マリナは祈りの“在る”を胸に置く。

 声は交わさない。

 骨と足裏で、通じる。

 紙片が一つ、掌に乗る。

 > “北の肩、囁き渡し多し。

>  “水緒”有効。頁打ちは“二→一”の場あり。

>  “入→出→入”ではなく“出→入→出”が楽な瀬も。

>  生きて、また会え。――カイル/ル/マ”

 配りの並びが地で異なる――よい注意だ。ミリへの写しを心で作る。


 渡しを終え、対岸の小丘で湯気を少しだけ立てる。

 薄いスープ。家の匂いは控えめに。

 俺は手引きの末尾に追補を書き、柱に仮留めする。

 > 『囁き渡し・水骨の渡り』

> ・耳は置く。《無・名・水時》/“名剥ぎ”気配では《無・息・水時》。

> ・水緒“ぷつ/ふつ”で返りの浅中。

> ・水簀は斜め。頁打ちは簀の目ひとつ手前で撫でる。

> ・配り石(水)点=入/筋=出。並びは地で選べ(例:入→出→入/出→入→出)。

> ・湯気は少し。香りは弱く。

 ミリが追って版に起こすだろう。字は短く、図は大きく。


 根合(ねあい)へ戻る道すがら、伝言所(でんごんじょ)の札が一枚、増えていた。

 > “題『芽の一日・水辺』。

>  濃→中/頁打ち二。

>  眠らず聞けた。――市の客より”

 図は丸と波線。良い。触って読める。


 小屋に着く。塔の梁に掌を当て、無拍をひとつ落とす。

 置かない一拍に、土がやさしく頷く。

 結界布は風をやわらげ、見張り塔は交互に低く歌う。

 『暮らし図』の余白には、戻りの線、言葉の帯、影の帯、配りの帯、耳の配り、そして“水の帯”が重なった。

 六つの歌が、紙の上で静かに合唱する。

 アレンが鞘で地をコン、と一打。

 “コツン、コツン”。畦の向こうで二拍が素直に応えた。


 夜。

 夢の糸が胸の裏で細く張り、川のさらに下手(しもて)――浅瀬が終わり、深みに入る手前で“音も影も薄く、代わりに地の震えだけが濃い”小さな背(せ)を指した。

 水ではなく、地が鳴る。

 《ここにいます。いきます。》

 稚い反復。

 「ここ」

 名だけ。

 糸は切れず、朱の先へ静かに伸びた。――次は“地の骨”を聴く番だ。


 寝具にもぐる前、梁に二つの板を吊るす。

 > 『水の帯・触読図(初版)』――丸(ぷつ/ふつ)、点(頁打ち)、点⇄筋(配り石)。読むときは息で、声は出さない。

> 『静かな道・宵(水)』――水時/二↔三歩/耳は置く。並びは“地で選べ”。

 ミリは目を輝かせ、刷り間の窓をそっと閉じた。

 図は増える。字は減る。息は入る。

 夜の渡しは、骨と足裏で読む。


(第42話・了)

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