第36話「段々の楽、棚田の帯」

 朝の畑は、吸うたびにわずかにふくらみ、吐くたびにほんの少し沈んだ。

 二本の見張り塔は低く歌い、結界布は夜の冷えを二度三度やわらげる。圧計の針は眠る子の胸みたいに浅く上下し、土の匂いは甘い。

 「浅い棚田へ。――“揺動の道”を段に沿わせる」

 アレンが鞘を肩に、短く言った。

 俺は革袋を改める。小布二枚、短杭四本、空鈴(からすず)、銀糸の水管。“息の帳面”と薄紙、白粉(しらこ)に加えて、苗床用の細い木枠(こわく)と“影印板”の小さい予備。

 ミリは刷り間(ま)で梁の紐を増やし、新しい刷りを干している。

 「『揺動の道・規(のり)』の板、橋と旅籠に置きました。今日は“市”用に丸の間隔へ“指の絵”を入れた版を届けます」

 「頼んだ。字は短く、図は大きく」

 エリナが笑い、俺たちは合流点を抜けて岬の先へ向かった。


 棚田は浅い階(きざはし)の連なりだった。白い綾筋が段の縁をなぞり、水は薄い銀糸になって“さらさら”と広がっている。蜂蜜色の揺れは盆地ほど深くはないが、段と段の間で戻りが“跳ね”へ化けやすい。

 空鈴の錘は、段の肩で小さく二度戻り、段の腹でゆっくり一度戻る。影印は風ではなく水の“撚(よ)り”で揺れる。

 「固定の醒印じゃ追いつかない。岬と同じく“揺動”が要る」

 アレンが言い、俺は“息の帳面”の余白に段の断面を描いた。

 > 『段々の楽・覚え書き』

 > ・段の肩=戻り“浅〜中”。醒印は四歩↔三歩。

 > ・段の腹=戻り“中”。醒印は三歩。

 > ・段の襟(えり/段と段の狭間)=戻り“踊り”。“重ね印”。

 > ・耳は捨て、戻りを見る。湯気は少し。


 段取りは《みはしら》。布は対角に二枚、短杭は足幅で二本、銀糸は“汗”。

 「呼吸は《無・名・時》。“時”は細く、必要なら“連”。名は小さく、骨でもよい」

 吸って――置かない。

 段の肩で半歩。

 「ここ」

 コン。

 空鈴の錘は浅く早く戻る。影は短い。

 「醒印、四歩」

 アレンが軽く“置き”を落とす。切らない正時。

 段の腹へ移ると、錘はゆっくり戻り、影は落ち着いて伸びる。

 「三歩」

 襟へ踏み込むと、戻りが二度に割れ、錘が微かに踊る。

 「“重ね印”」

 エリナが掌幅で連印を置き、俺は《無》を浅棚で抱き、アレンは細い連の“時”を骨で通した。

 ――ほどけた。

 段の襟の撚りが溶け、水の銀糸は“さらさら”へ戻る。


 段の端に、苗床の木枠を置く。

 「踊り帯と苗床を並べる。――踏み荒らさない“間(ま)”を印にする」

 白粉で“踊り帯”の細い楕円を描き、木枠の苗床に“息の帳面”から切り取った影の枠を差す。

 > 『苗床の規(のり)・段々版』

 > 一、苗床は“踊り帯”の外。空鈴の戻りが“中”の幅に置く。

 > 二、湯気は少し。香りを強くしない。

 > 三、踏み込みを忘れない――半歩で土を“置く”。

 > 四、子は影、小鈴。老は息、布鈴。

 苗鍵(なえかぎ)で土に薄い刻みを付けると、銀糸が刻みに沿って静かに広がった。段の呼吸はふくらみ、土は“楽”を覚える。


 午前のうちに三段へ“揺動の道”を敷いた。丸い醒印は二歩/三歩/四歩へと可変で並び、襟だけは二連の星印。

 「掲示も立てる」

 俺は薄紙に短く書いて、段ごとに紐で結わえた。

 > 『段の帯』

> ・肩=四↔三歩。腹=三歩。襟=“重ね印”。

> ・《無》は棚で抱く。名は小さく(骨で可)。時は細く。

> ・耳の拍は捨て、戻りを見る。

> ・湯気は少し。苗床は外。

 字は短く、図は大きく。段ごとに違う丸の間隔が、子どもの目にもすぐ入る。


 昼餉は薄いスープと少量の蜜煮。湯気は少し。家の匂いは控えめに。

 食後、北の小集落から子どもが三人、旅籠の女将に手を引かれてやって来た。年寄りが二人、布鈴を腰に下げて続く。

 「今日は“段の遊び”だよ」

 エリナが笑い、白粉で三つの丸――《無》《名》《時》を段の肩に並べる。

 「声は小さく。届けばいい。息は止めない」

 見本を見せる。

 吸って――置かない。

 左の丸へ半歩。

 「ここ」

 中央の丸へ半歩。

コン。

 右の丸へ半歩。

 子どもは最初、《無》を長く踏みすぎて笑い、《時》を忘れて笑い、笑いながら“間”を掴む。

 年寄りは布鈴の戻りを見るうちに歩幅が揃い、段の肩から腹へ移るころには、息の影が“短→中”へ自然に伸びた。

 「襟は“重ね印”。――掌の幅で二つ」

 エリナが手本を示す。

 子どもは掌を置くふりで土へ軽く“触れ”、年寄りは布鈴を指で二度揺らして戻りを確かめた。

 襟の撚りがほどけ、段の水は笑う。


 午後、山の肩から《名剥ぎ風(なはぎかぜ)》が一度だけ流れ込んだ。

 女将の声が喉の手前でほどけ、子どもの笑いが音にならず跳ねる。

 「止まらない。――《息の家》へ切り替え」

 俺は空鈴を掲げ、影印板を指差した。

 「《無・息・時》。骨で“ここ”。醒印は三→二へ詰める」

 列は崩れず、段の肩から腹へ渡る。

 襟では“重ね印”。戻りは深くも浅くもなりすぎず、呼吸は続く。

 風が収まると、女将は笑って喉に触れた。

 「拾えたら拾えばいい。――名は帰り道で」

 エリナがうなずき、短く名を置く。

 「ここ」


 段の端に、小さな屋根と横木を渡した“伝言所(でんごんじょ)”を作った。

 『暮らし図』の写しと、朱と白粉、細い紐、薄紙。小さな箱は“息の帳面”の返却箱。

 掲示を三枚。

 > 『伝言所の規』

 > 一、声を張らず、息で書け(息が乱れる伝言は置かない)。

 > 二、字は短く、図は大きく。戻りは朱の丸で。

 > 三、危(あや)しきを見たら“戻りの丸”を二重に。

 > 四、湯気は少し。香りを強くしない。

 > 五、拾った名は自分の胸へ。人の名は書かない。

 横木に紐で吊るした“空鈴の札”には、指二本/三本/四本の絵。醒印の間隔をひと目で示す。

 「勇者(ゆうしゃ)隊が交差しても、ここなら息で通じる」

 アレンが鞘で横木をコン、と触れ、俺は薄紙の端に小さく印を置いた。

 > ・《みはしら》で渡る。二/三/四歩。襟は“重ね”。

 > ・《名剥ぎ風》は《無・息・時》。拾えるときに拾え。


 伝言所の前で、見知らぬ旅の者が紙を一枚そっと吊るした。

 > “北東へ向かう三人。踊りの帯に救われた。

 >  岬の先、浅い棚の上にも“戻りの丸”が欲しい。

 >  息は楽。――名は、帰り道で拾えるようにしておく。”

 紙の端に、小さな丸が三つ。二/三/二。

 “揺動の道”の切替を、彼らなりに記したのだ。

 「伝わってる」

 エリナが笑い、俺は『暮らし図』の余白に小さな丸を写した。


 日が傾き、段の水は金色の“さらさら”へ落ち着いた。

 俺は“段々の帯”の端に“息の腰掛け”を二つ置き、影印板へ今日の“戻り”を並べた。

 子どもの小空鈴の戻り線は弧を描き、年寄りの布鈴の戻り線はゆるやかに揺れる。

 > 『息の数の地図・段々版』

 > ・段ごとに影と戻りを重ね、醒印の丸を記す。

 > ・読むときは、息で読む。声は出さない。

 > ・“疲れた”が言えたら、座れ。――“楽”は続くためのもの。

 板を見上げるだけで、胸の奥の呼吸がゆっくりと伸び縮みした。


 夕餉は小屋に戻らず、段の肩で火を小さく。湯気は少し。家の匂いは控えめに。

 薄いスープを分けながら、俺は手引きの末尾に二つ追補を書いた。

 > 『段々の楽・帯の敷き方』

 > ・肩=四↔三。腹=三。襟=“重ね”。

 > ・《無》は棚で抱く。名は小さく(骨)。時は細く(連も)。

 > ・苗床は帯の外。踏み込みは半歩で“置く”。

 > 『伝言所の作法』

 > ・字は短く、図は大きく。戻りは朱。

 > ・危しきは二重丸。

 > ・名は書かない。息で読む。

 ミリへ渡す写しも取る。明日、刷り間で板にして“市”と橋と旅籠へ配るつもりだ。


 片付けを終える直前、伝言所の空鈴がそっと揺れた。風ではない。

 薄紙が一枚、横木に増えている。

 > “北の肩、揺動の道を試行。

 >  二歩/三歩の切替は効く。

 >  四歩が長すぎる地では“息の棚”を厚く――《無》を“軽く、確かに”。

 >  生きて、また会え。――カイル”

 丸い印は二/三/二。端に、小さな丸でルーナ。

 > “氷鳴りのまやかし減。影を見る。――ル”

 祈りの小印はマリナ。

 伝言所は機能した。声を張らずに、息で通じる。


 根合(ねあい)へ戻る道すがら、合流点の“遊び板”に新しい影が増えていた。

 子どもが自分で「今日はここまで」と書き、年寄りが「ここで座る」と朱で丸を付けている。

 言えることは、守れることだ。


 夜。

 塔の梁に掌を当て、無拍をひとつ落とす。

 置かない一拍に、土がやさしく頷く。

 結界布は風をやわらげ、見張り塔は交互に低く歌う。

 “長く踊れる市”は小さな寝息をたて、“段々の帯”の丸は月光で薄く光る。

 ふかい地の底で、二拍。

 ――コツン、コツン。

 遠い。急かさない。

 夢の糸が胸の裏で細く張り、棚田のさらに先――等高線がもう一度集まってほどける“小さな谷戸(やと)”を指した。そこには、古い“刻み”の影も。

 《ここにいます。いきます。》

 稚い反復。

 「ここ」

 名だけ。

 糸は切れず、朱の先へ静かに伸びた。

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