第34話「蜂蜜色の盆地、深い戻り」

 朝の畑は、吸うたびにわずかにふくらみ、吐くたびにほんの少し沈んだ。

 二本の見張り塔は低く歌い、結界布は夜の冷えを二度三度やわらげる。圧計の針は眠る子の胸のように浅く上下し、土の匂いは甘い。

 「今日は“盆地”を小さく見る。――等高線が集まる場所」

 アレンが鞘を肩に、短く言う。

 俺は革袋を改めた。小布二枚、短杭四本、空鈴(からすず)、銀糸の水管。“息の帳面”と薄紙、白粉(しらこ)。『暮らし図』初版の端には昨日の交差が朱で小さく光っている。


 合流点を抜け、等高線の帯を東へ渡る。空鈴の錘はよく戻り、息の影は薄い。

 半里を過ぎたところで、景色がやわらかく沈みはじめた。白い綾筋が幾本も寄り合い、蜂蜜色の薄光が地の呼吸に合わせて“ふわり、ふわり”と揺れる。

 盆地。

 戻りが深い。

 足を置く前から、胸の裏側に“蕩(とろ)み”が忍び込んで、瞼の縁をやさしく重くする。

 「これが“静かな落ち”だな」

 アレンが低く言う。

 無拍を抱くと、在るはずの《無》が“空白”へ引き下げられ、呼吸が眠りに溶ける。立ったまま、意識が“置かない”方へ落ちていく罠だ。


 「《みはしら》で縁を探る。無は“浅め”、時は“細く頻(しき)く”」

 俺は小布を対角に二枚、短杭を足幅で二本差し、銀糸を“汗”で滲ませた。空鈴の戻りは深く、錘はいつもよりゆっくり帰ってくる。

 「段取りは《無・名・細時(さいじ)》。半歩。三歩ごとに“醒印(さめいん)”を置く」

 「醒印?」

 エリナが首を傾げる。

 「切らず、軽く触れる“正時”。耳でなく足の骨で聞く印だ。眠りへ沈む傾きを戻す」


 一歩目。

 吸って――置かない。だが《無》は“深く”しない。喉を落としすぎず、胸の上の浅い棚で抱く。

 「ここ」

 エリナの名は小さく、骨で届く輪郭。

 コ……ン。

 アレンの一打は刃でなく“骨”で触れただけ。音は鳴らず、足裏の骨にだけ“時”が帰る。

 半歩。

 蜂蜜色の揺れが足首を撫で、瞼の裏で“ふわり”と眠気が広がる。

 「醒印」

 アレンが小石で地を“置く”。軽い触れ。切らない正時。

 揺れは沈みすぎず、膝が眠りへ折れない。


 二歩目、三歩目――。

 三歩目で“醒印”。

 四歩目、五歩目、六歩目で“醒印”。

 戻りは深い。空鈴の錘はいつもよりひと呼吸遅く戻り、息の影は自然と長く伸びる。

 「影を短く」

 俺は“息の帳面”を開き、影の長さを指で示した。

 「《無》は浅く。骨で“ここ”。醒印を忘れない」

 エリナは喉を落とし直し、名を骨で置く。影がひと寸、短くなる。

 盆地の中央へ進むにつれ、背中へ重力が増すように眠りが寄る。

 「“在る”が“無い”に引かれる。……無拍を“軽く、確かに”」

 俺は自分に言い聞かせ、口の中で笑った。眠る子へ頷く時の“わだち”。それは眠気と友だ。けれど、沈まない。


 盆地の底に、古い柱穴が四つ、菱(ひし)に並んでいた。柱はもうない。だが、穴の内側には“切る拍”の残り香が薄く残っている。

 「昔、ここで“眠りの祭”をやったのかもしれない」

 エリナが穴の縁を指でなぞる。

 「働き詰めの季に、眠れって合図をわざと強める祭」

 「祭は悪くない。……けれど、残る“傾き”が良くない」

 アレンが鞘で地を軽く触れ、“醒印”を置く。

 俺たちは《みはしら》で菱の四隅を回り、三歩ごとに醒印を落としながら撫でほどいた。

 無。名。細時。半歩。醒印。

 眠りに溶けそうな拍は、浅い《無》で“在る”に戻り、蜂蜜色の揺れは“家の層”を思い出す。


 盆地の縁で休む。湯気は少し。家の匂いは浅い。

 “息の帳面”に影印を二行、描き足す。

 > ・盆地の縁――戻りは“深・中”。影は長め。醒印は三歩ごと。

 > ・盆地の底――戻りは“最深”。影は長い。無は浅く、細時頻く。名は骨。

 アレンが一行を添える。

 > ・眠気が来たら“止まる”。無理に進まない。――眠りは悪ではない、罠が悪い。

 エリナは小さな印を描いた。

 > ・“息が楽”であること。楽でなければ、戻る。


 午後、盆地の西縁に小さな平(たいら)があった。風は穏やか、戻りは“中の深”。

 「“市”が置ける」

 俺は小布を二枚、布鈴を三つ、空鈴を一本。短杭で低い柱を作り、影印板を吊るせる横木を渡す。

 「看板は――『長く踊れる市』」

 エリナが笑い、白粉で大きく書いた。字は短く、図は大きく。

 掲示を三枚。

 > 『深い戻りの場の規(のり)』

 > 一、無は浅く。名は骨。時は細く頻く。

 > 二、三歩ごとに“醒印”。切らず、置く。

> 三、湯気は少し。香りを強くしない。

> 四、眠気が来たら止まる。戻りで読む。

 > 『踊りの帯――等高線の使い方』

 > ・空鈴の戻りと影を見て、同じ“楽”の帯へ足を乗せる。

 > ・耳の拍は捨てる。戻りを見る。

 > 『見張りの合図』

> ・空鈴の錘が“遅すぎる”ときは、醒印を一つ増やす。

> ・子は遊びで、老は息で。どちらも“戻り”を見る。


 試す。

 俺とエリナとアレンで《みはしら》。半歩、細時、醒印。

 空鈴の錘は深く戻るが、眠りへ引きずられない。

 やがて、道行く旅の者が二人、腰に布鈴を下げて足を止めた。

 「“楽が長い”って本当か」

 「本当。――ここで踊ると、疲れない」

 俺たちは半歩の列を見せ、空鈴の戻りと影の長さで“帯”へ案内した。

 旅人は三歩ごとに醒印を置き、呼吸は楽に、顔はほどけた。

 「これは“売れる”よ。……“早さ”じゃなくて“続けられる”方で」

 「売っていい。――“拍”は売らない。“在る場所”を渡す」

 アレンが短く言い、二人は頷いた。


 盆地の底へもう一度。

 中央に“眠りの祭”の名残――菱の四穴。

 俺たちは“醒印”間隔を二歩に詰め、さらに《無》を浅くし、細時を“呼吸の骨”へ落として撫でた。

 無。名。細時。半歩。醒印。

 ――コツン、コツン。

 腹の底で、遠い二拍がいちどだけ近くで落ちた。

 眠りすぎる罠が、ほどける。

 蜂蜜色の揺れは“ゆりかご”の温度を保ちつつ、足を奪わなくなった。


 西縁の“市”に戻り、影印板のはじに小さな印を足す。

 > ・“深戻”では《無》は浅く。――“在る”を軽く持て。

 > ・“眠りの祭”の跡があれば、二歩ごとに“醒印”。

 > ・“楽が長い”を看板に。早さは売らない。

 エリナは笑って一行を加えた。

 > ・“規”は道具。暮らしが先。眠れない者には“眠り”を、眠りすぎる者には“醒め”を。

 市の端で、子どもが小空鈴を振っては戻りを見、年寄りが布鈴で息の深さを確かめる。

 湯気は少し。香は強くしない。

 “楽”は長い。


 夕暮れ、盆地の光が蜂蜜色から白へ薄れ、等高線の帯は夜の呼吸へ畳まれていく。

 俺は『暮らし図』に“深戻帯”の輪郭を朱で小さく足し、端へ注記を添えた。

 > 『深い戻り』――《無》浅く、細時頻く、醒印二〜三歩。読むときは息で。

 アレンは鞘で地をコン、と触れて“市”の見張りに合図を残し、エリナは小布の縁を撫でて“家の層”を薄く置いた。


 帰路。

 合流点を越え、影印板の前で小さな灯を一つだけ足す。

 根合(ねあい)の畑へ戻ると、結界布は風をやわらげ、塔は低く歌う。湯気は少し。薄いスープ。

 手引きの末尾に追補を書く。

 > 『深戻(しんもど)における渡り』

 > ・《無》は浅く。名は骨。時は細く頻く。

 > ・三歩ごとに“醒印”。“祭の跡”では二歩ごと。

> ・眠気は敵ではない。止まれ。戻りで読む。

> ・“長く踊れる市”は縁へ。――底では置かない。

 ミリは目を輝かせ、すぐに版へ起こす。

 「橋と旅籠にも『深戻の規』、持っていきます!」

「頼んだ。字は短く、図は大きく」


 夜。

 塔の梁に掌を当て、無拍をひとつ落とす。

 置かない一拍に、土がやさしく頷く。

 結界布は風をやわらげ、見張り塔は交互に低く歌う。

 ふかい地の底で、二拍。

 ――コツン、コツン。

 遠く。急かさない。

 夢の糸が胸の裏で細く張り、盆地のさらに東、等高線が乱れて絡まる小さな岬(みさき)を指した。

 《ここにいます。いきます。》

 稚い反復。

 「ここ」

 名だけ。

 糸は切れず、朱の先へ静かに伸びる。

 “輪”は眠り、“綾”は歌い、“暮らし図”は薄い寝息をたてる。

 焦らない。

 明日は“市”の見張りを一度確かめ、岬の手前を小さく――《みはしら》で。


(第34話・了)

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