陰陽のすヽめ

秋田

第1話 まだ生きてる

「まだいきてる」


 女は落胆の色を隠さず、大きなため息をついた。

 大きな懐中電灯で、部屋を照らす。

 朽ちたトタンの壁はもはや壁と言えず、屋根を支えているだけの立板にすら見えた。ヒビ割れが大きい床は、雑草が割れた隙間からウネウネと伸びてきており、脛に当たると気持ち悪い。

 極め付けに、糞尿の悪臭が至る所に染みつき、瞬時に吐き気を覚え、鼻を人差し指で塞いだ。


「…………」


 右手には、硬く冷たいパンが一つと水の入ったコップが一つ乗ったトレイがあった。女は古屋に踏み入り、部屋の中心で腰掛ける、死人のような、しかし微かに胸を浮き沈みさせる青年に近寄っていった。

 身体中から骨が浮き出て、骨と皮しか無いような肉体。ボサボサな黒髪は一度も切られることなく伸び切り、今や地面に届きかけている。着ている服も、埃塗れで糞尿塗れ、服の意味を成していない。


 女は徐に慣れた手つきで懐中電灯を脇で抱えて、空いた左手でコップを青年の口に当てた。とくとくと冷たい水が青年の乾いた唇と喉を潤していく。

「…………」

 青年は流れ込んでくる水を、半分くらい溢しながら飲んでいるようだった。それからパンを口に当てる、青年はゆっくりパンを噛み切り、モソモソ食べた。飲み込んだのを見てから、再びパンを口に当てる――。


 完食すると、女は青年に虫を見る目を向けた。怖いもの見たさ、というものだろう。こいつは昨日と、お昼ごろと同じなのかという好奇心であった。

「…………」

 青年は満足そうに、笑っていた。カピカピに乾いた肌に皺を寄せて、それはそれは筆舌に尽くし難し微笑である。

 女は、人間がこんなふうになっても生きようと足掻く様に毎度、戦慄を覚えるのだった。


***


 青年にとって、それが全てだった。

 生まれ付き"目"が機能せず、光を一切認識できなかった。故に、世界も知らず、己が何なのかも知らず、『生きる』ということに関してもまるで分からず、ただ眠くなったら眠り、たまに聞こえる音と口の感触を頼りに飯を食う、それだけが全てだった。


 青年の生き甲斐は、過去を思い出すことだった。昔聞いた音をよく思い出していた。

 そこでは、自分に物語を語ってくれる音があった。おじいさんやおばあさん、とり、おに、もも、ねずみ、かみ、はら、たいよう、め、し、いきる。

 青年はその音の内容を何一つイメージ出来なかったが、そんなことよりも、その音が聞こえる時だけは胸が安いだ。内容よりもそのことが心地よく、その音が聞こえると嬉しくなった。


 しかし、数年前からその音は聞こえなくなり、代わりにもう少し違う音で「まだいきてる」と毎回聞こえるようになった。この音も好きだった。この音が来ると、空っぽを満たしてくれたから。満たされると腹部の痛みがなくなるので嬉しかった。前の音の時はもっと、もっと満たされるものが欲しいと考えるものだったが、些細なことだった。

 自分に与えて満たしてくれるだけで、満悦の感謝の極みであった。


***



「あ゙あ゙あ゙あ゙づーーい゙い゙いィッ!!!!」



 ――――ある時、いつもより大きな音が聞こえた。

 それは一度も経験のない音と、匂いだった。


 全身が燃え盛る少女は、床を転がってまとわりついていた炎を鎮火させた。それから地面に寝転んだまま、ギリギリと歯を噛み締め地面をバンバンと四肢で叩いた。


「あんのぉ女ぁ……!! 本気にしすぎじゃろぉッ、クールぶってる癖にヨォ……!! ッ……ぎゃはは、だがワシゃまだ生きてる、まだまだ生きてやるぞ……ぎゃはは……!」


 少女が痛みと恨みによって這いずる音が聞こえ、青年はまた知らない音だったが、飯が来るかもと、口を開けておいた。


「なにここ、くっさー」

「――ッ!」


 すると、また違う音が小さく聞こえる。青年にとって、二つの"音"を同時に聞いたのは初めてで、取り乱した。しかし身体は動かず、ただ鼓動が速くなるのと、汗が浮かぶだけだった。


「さっさと諦めてくれねーかなー……前々から思ってたんだけどさー、なーんでお前ら『ノクト』は生きたがりが多いんだ? なんか大義でもあんのかー?」


 煙草を咥えたその女はフードを被っており、『大日本だいにほん猟闇会りょうあんかい』と刺繍されている。右手には大きな火炎放射器をぶら下げて、月光を背中に背負い、這い蹲るノクトを見下ろしていた。

 女はふぅーと紫煙が口から吹かれた。

 ノクトは体を仰向けに翻して、純然たる悪意の笑みで言い返した。


「はは! やっばり人間は滑稽じゃなぁ! 人間はすーぐ意味を持たせたがる――意味なんかなくても生きるのが"生きもん"じゃろがーー!!」


「――良かった、じゃあ難しいこと考えずにぶっ殺せるや」

 次の瞬間、女は何の躊躇もなくノクトに火炎放射器を放った。


 同時に、青年の感じたことのない熱が眼前に迫った。呼吸をすると肺が焼けた。青年は本能的に助けてと、昔聞こえた音に向かって、何度も何度も、願った。


「あああづっづい――――けどっ! ぎゃはは! ワシをここまであづ、逃したのはあづ! 失態だったようじゃなぁーー!!」


 次の瞬間、青年はグイッと胸ぐらを引っ張られた。

「お主、まだ生きておるな」

 ――想像を絶する痛みが青年の脳内を満たした。

 ノクトは容赦なく、青年の眼球を取り出した。血管が繋がっており、びよんと伸びる。噴き出る血が自分の体を濡らしてもお構いなく、取り出した青年の眼球の瞳孔を見つめて、目を見開いた。

 刹那、少女の瞳孔が大きく拡大した――。


「――チッ、死体だと思ってた!」


 女は咄嗟に火炎放射器を構えて豪炎を放ち、古屋は一瞬にして炎に包まれた。それが一般的な火炎放射器よりも、炎の威力や大きさや速度が段違いなのは、誰の目から見ても明らかだった。

 パチパチと木や雑草が燃えて、古屋の中は黒い煙が充満し、女は古屋から退避した。

「……」

 燃え盛る古屋を注視して、女は火炎放射器を構える。

 すると、


「ぎゃははははハハハ!! 滑稽じゃの〜! 追い詰めて追い詰めて、爪が甘かったの〜!」


 轟々と燃え盛る炎を中から、を盾にする、先ほどまで死に体だった青年が現れた。骨と皮だけだった体は肉と筋肉が付き、生気がなかった顔に皮肉顔という色がついていた。

 やられた、……。


「ん? さすがクールキャラ、スカした顔も真っ青じゃな! ギャーハハハハハハハ!!」


「――――」


 女は火炎放射器を青年に向け、トリガーに指をかけた。咄嗟に、ノクトが手のひらを向けて制した。


「まだこの人間は生きておる!!」

 その一言に、女はピクッと固まった。

「ギャヒ! お前ら人間の社会じゃ同族殺しは大罪なんじゃろ? プププ、そーやって指咥えて眺めておればよいのじゃ、同族贔屓する下劣な生物が」


 ノクトはわざとらしく腕を頭の後ろで組んで、体を捻る。女が何もできないと思っているからこそ、挑発している。

 カチ。


「――ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!!! あっっっぢぇぇ!!??」


 女は躊躇うことなく燃やした。また炎に包まれたノクトは地面を転がる。


「き、貴様人を燃やすのかァ!? この人殺しがぁ!! 鬼か、畜生がぁ!!」


「いやー、報告書にお前に乗っ取れた人は死亡扱いって書いてたからねー。つーかそもそも、その人もう死んでるようなもんでしょー」


 女は更に炎を放つ。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!! ――生きとる! この人間は生きとる!! 生きとると言っとるじゃろがぁぁぁぁぁあ!!!!」


「赤の他人の命より、お前を殺す方が大切だよ」


 このドクズがぁぁ!! こいつ人間じゃない、何か必要なもんが外れておる! 人の形して、人の声して、人みたいに苦しんでるのに……あんな平然と燃やせるなんて、鬼畜以外なんでもないんじゃあ!!


 人気のない山中の一村、その一角にある物置小屋前、そこだけが夜闇の世界の中、業火の光で明るく灯っていた。響くのは炎の燃える音と悲鳴だけ。

 ――い、いつまで続くんじゃこれは……あれの燃料切れを待たずワシが先に……いや、ワシは死なん、ワシゃ"闇"じゃ、闇は不滅じゃ。じゃ、じゃがその前に痛みでどうにかなっちまいそうじゃ。


 っか、かく、かくなる上は――――。


***


「…………? やーっと生きるの諦めくれたかー?」


 動かなくなったノクトを見て、女は火炎放射器を肩にかけた。しばらくノクトが動かないのを目視で確認してから、「じゃ、いいよー」と声を上げた。

 ゾロゾロと、背後の森林の闇から女の仲間が現れた。全員が女性で、厳かで、しかし目立たない黒いスーツに身を包んでいる。


「ご苦労様です! 天筒あまつつさん!」

「今日はしぶとい奴でしたね、ですがあそこまで焼けば流石にもう大丈夫でしょう」

 天筒さん……かっこいい……。


 天筒は女たちからの慰労を聞きながら、紫煙を吐き出す。

「けど一応手早く始末して、ノクトそいつの気が変わるかもしれないからね。…………」

「わっかりました! 有紗いきます!」

「あっ! 抜け駆けするな! 須藤いきます!」

「さは、佐原いきまーす!!」

「あんたらホント……じゃあ天筒さん。前橋、いきます」

 スーツの女たちはすっかり焼け焦げ仄かに煙が登る、血塗れのノクトに駆け寄って取り囲むと、われ一番と駆け出した有紗が仰向けに寝かせた。煤になった服を手で払い、ノクトの腹を露わにする。狙いは腹ではなく鳩尾みぞおちにあった。

 ノクトを殺すには、鳩尾に埋まっている核なるものを破壊しなければいけない。核はピンポン玉のような形状をしており、正確に破壊するために、ノクトを行動不能状態に陥らせることが推奨されている。

「あっ、有紗! ノクト核発見しました!」

 有紗は鳩尾あたりに触れ、僅かなしこりを探り当てると手を挙げ、嬉しそうに笑って報告した。すると二人の女が前に出て、ポケットから取り出した小刀を振りかぶり、そのウィークポイントを狙った。

「わたしっ、須藤いきます!」

「ちょ待、佐原いきまーーーーーーー――――」

「有紗、ありっ、有紗いきます!!」

「お前は誘導役だろ!?」


 三人が小刀を構えて諍い合っているのを、前橋は静観していた。毎回恒例のイベント、見慣れた風景に安らいでいると、ふと、違和感を感じた。

「…………」


 このノクト、屈曲していない……。


 通常ノクトが動かなくなる時、完全に燃え尽きた状態、つまりファイティングポーズの格好で停止するし、それからノクト核を破壊する。しかし、このノクトは全身が伸び切ったまま、停止している。

 ……それはつまり、まだ死に切れてないっていうことだ。この違和感を表すなら、山中ある地点だけ枯葉が無くて土の色が違うーみたいな、なんか裏っかわに大きな謀りがあるような……そんな不気味な違和感だ。

 そうか、だからさっき天筒さんも懐疑的な顔をしていたのか。焼いた張本人がこの違和感に気が付かない訳がない……マズイ、この私前橋、二十五年分の違和感は、論ずるまでも無く『危険』!

「みんな! 早く仕留め――」


 次の瞬間、ノクトの火傷が、修復されていた。

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