第5話 なにもしない
第五話 なにもしない
到着したその瞬間、三人は言葉を失った。
都市の外に、こんな場所が本当に存在するとは思っていなかった。
自然と調和するように家々が並び、石畳の小道がゆるやかに続いていた。家々の外壁は白や淡い木目で統一され、まるで風景の一部のように静かに佇んでいる。電線はなく、人工音もない。風に揺れる木々の匂いが鼻先をかすめ、どこからか焚き火のかすかな煙の香りも混じっていた。
そして、その向こうには、ひらけた海が広がっている。
白い波が静かに寄せては返し、空と海がひとつに溶け合うような風景が広がっていた。音のない遠景ではなく、確かにそこに“生きている”自然だった。人工ではない、世界の原型のような静けさと広がりがあった。
スイが、ぽつりと息を吐いた。「……ほんとに、あるんだね、こんなところが」
タクミも、無言のまま小さく頷いた。これまで幾度となく、虚偽や幻想やデマに踊らされてきた分だけ、この静寂が、逆に現実味を持って迫ってくる。
「こちらへどうぞ。まずは滞在施設へ」
神崎の声に導かれ、三人は小道を歩き、木造の建物へと案内された。建物は平屋で、どこか懐かしい山小屋のような佇まいだった。迎賓用の宿泊施設だというが、いわゆる“施設感”は皆無で、空気の流れまで設計されたような柔らかさがあった。
中に入ると、空間は簡素で温かく整えられていた。高い天井、無垢材の床、陽の差し込む広い窓。余計なものはなく、しかし何も不足していない。空間そのものが、歓迎しているようだった。
窓を開けると、潮の香りを含んだ風が吹き抜けてきた。遠くから波の音が届き、時折カモメの鳴き声が重なった。
「ここって……ほんとに、全部ただなの?」
スイが小さな声で尋ねた。あまりに整いすぎていて、むしろどこか不安になるほどだった。
神崎は穏やかに微笑んで答えた。
「ええ。この村には通貨はありません。必要なものはすべて、AIとロボットが供給しています。ご自由に、ゆっくりお過ごしください」
それだけ言うと、神崎は静かに部屋を後にした。説明も説得もなく、ただ空間と時間が差し出されていた。
藤沢は無言で、畳のような床に腰を下ろした。どこかに座るように指示されたわけでもない。けれど、自然とそうしたくなる雰囲気がこの部屋にはあった。
窓の外の海は、さっきよりも光を増していた。波の音が、都市のざらついた記憶を少しずつ洗い流していくようだった。
——働かなくていい。
その言葉が、身体の中に静かに広がっていく。
都市でも、すでに“働く必要”はなかった。AIとロボットが、ほとんどすべての労働を代替できる時代だった。配送も教育も医療も管理も、多くの分野で人間の介在は形式的なものに過ぎなくなっていた。
それでも都市では、「働くこと」が正解とされていた。仕事がなくても、働く“ふり”をしなければならず、不要な部署が存続し、無意味なプレゼンや報告書が量産され、仕事のための仕事が繰り返されていた。
仕事をしているように“見えること”。それが都市で生き延びる最低条件だった。
ここには、そうした構造がない。
通貨もない。誰がいくら稼いだかも、誰かが“正しい”かどうかも、基準が存在していない。
だが、それは不便ではなかった。むしろ、極めて合理的だった。
——リソースが、常にあるのなら。
わざわざ貨幣で分配する必要はない。誰かから奪わなくても、生きていける。競争のための虚構が不要な世界が、すでに成立している。
藤沢は静かに目を閉じた。波の音が、遠く近く、交互に届いていた。
まだ信じ切れてはいなかったが——確かに、ここは“都市ではない場所”だった。
翌朝、神崎は約束通り三人を迎えに来た。
「今日は、村をご案内します。時間はたっぷりありますから、どうぞ気楽に」
声の調子も、表情も、昨日とまったく変わらない。だが、そうであることが、藤沢にはかえって心地よかった。
外に出ると、朝の光が村を静かに包んでいた。都市のような人工的な光源はなく、太陽が地平からゆっくりと顔を出し、草木や建物にやわらかい影を落としていた。
村の中は、想像していたよりもずっと静かだった。
騒音も、喧騒もない。だが、沈黙ではない。どこかで誰かが話し、どこかで誰かが笑い、鳥のさえずりと風の音が、すべてを繋いでいた。
畑では、大人と子どもたちが混じり合い、土をいじっていた。作業というより、ほとんど遊びに近い。誰かが笑い、誰かが寝転がり、トマトをかじっている子どもがいた。耕すというより、戯れるという言葉が似合っていた。
「ここは決まった担当者はいません。気が向いた人が来て、やりたいことだけをする。」
神崎の声が、土の匂いの中に溶けていく。
工房の建物では、木を削っている中年の男性と、器を成形している若い女性が並んでいた。互いに言葉を交わすでもなく、ただ同じ空間で静かに手を動かしている。
「みなさん好きな事をして生きてます」と神崎が言った。
藤沢は頷いたが、言葉にはしなかった。言葉にすると壊れてしまいそうな静けさが、そこにはあった。
さらに歩いていくと、広場に出た。中央では焚き火が焚かれ、その周りで十人ほどが座ったり寝転んだりしていた。小さな楽器の音が風に乗って漂い、火のはぜる音と混ざり合っている。何かのイベントでもない。ただ、火と音を囲んで、人々がそこにいるだけだった。
それらの風景の背後では、さまざまなロボットが静かに稼働していた。小さな搬送ロボットが食器を運び、地面に張りつくような機体が落ち葉を回収している。畑の端では四足歩行の農業支援ユニットが苗を移植していた。
どの機体も、都市で見るような“監視”の気配はなかった。むしろ自然の一部のように振る舞っていた。
「ヒューマノイドは、私だけです」
神崎が立ち止まり、振り返らずに言った。
「この村では、人が人らしくいられるように、ロボットは徹底して脇役に徹しています。都市よりも技術は進んでいますが、あえて“目立たない”設計を選んでいます」
その言葉を裏付けるように、周囲の人々は誰一人ロボットに注意を向けていなかった。あまりに馴染んでいて、存在を意識する必要すらないのだ。
この村には現在、約五百人が暮らしているという。神崎によれば、コスモス国内には同様の“村”が数多く存在しているが、ここが最大規模らしい。
「ほかの村は、それぞれ独自のやり方で運営されています。でもここは、いちばん多くの人を受け入れてきた場所です。だから少し雑多でもありますが、それがこの村の色ですね」
歩きながらすれ違う村人たちは、自然な仕草で神崎に挨拶をしていった。軽く手を挙げる者、笑顔で何かを報告する者、子どもを抱いたまま神崎に話しかける若い母親。中には真剣な顔で何かを相談している者もいた。
神崎はこの村で、誰よりも慕われていた。
それは彼女の穏やかさや公平さに加えて、この村そのものを築き上げたのが神崎だという事実も、大きな理由の一つだった。
聞いた話では、彼女はこの村をつくる前に、いくつかの“カオス村”に身を置いていたらしい。
誰もが、彼女を“役職者”としてではなく、“信頼できる誰か”として見ていることが、態度の端々から伝わってきた。
「神崎さんに聞けばだいたい何でもわかるのよ」
と、木陰で野菜を洗っていた初老の女性が笑った。
その声に応えるように、神崎は軽く会釈を返すだけだった。威圧感も特別感もない。ただ、そこにいるというだけで、周囲を安心させていた。
藤沢はそのやりとりを少し離れた位置から眺めながら、どこか遠い場所の話を聞いているような心地だった。
神崎が案内するまま、藤沢たちは村の中心部に近い静かな空間に足を踏み入れた。
小さな花畑が広がり、木々のあいだから柔らかな光が注いでいる。そこだけ空気が澄み切っていた。
「……あれ、誰?」
ふいにスイが声を落とした。
視線の先、木漏れ日の中に立っていたのは、一人の少女だった。
年は十代後半ほどか。
だがその姿は、年齢という枠を超えていた。
長い黒髪、凛とした顔立ち。何よりも、周囲の空気が彼女を中心にゆるやかに回っているようだった。
彼女のそばには数人の取り巻きがいたが、皆、どこか敬意と親しみを混ぜた眼差しで彼女を囲んでいた。
その中に、小柄な少女がひとりぴったりと寄り添っている。年の離れた妹か、忠実な従者のようにも見える。
「……あれは、誰なんだ?」
藤沢の問いに、神崎は静かに答えた。
「リナさんです。この村で、中心的な存在です」
「中心的……?」
「ええ。詳しくは本人から聞いたほうがいいかもしれません」
ちょうどそのとき、リナがこちらに気づき、ふっと笑みを見せた。
その笑みは、不思議とやわらかく、見る者の緊張をそっとほどくようなものだった。
リナはゆっくりと神崎に歩み寄ってきた。
隣の小柄な少女がぴったりとついてくる。
近づくにつれ、リナの存在感が輪郭をもって迫ってくる。
ただ美しいだけではなかった。慈悲や愛のオーラを身に纏っているような、それでいて不思議な深さもある。
「神崎さん。お帰りなさい」
「こんにちは、リナさん。今日もお元気そうですね」
「ええ、おかげさまで」
リナは少し笑って、言葉を続けた。
「新しい人たち……ですよね?」
「はい。藤沢さん、タクミさん、スイさん。昨日、村に着いたばかりです」
リナは目を細めて三人を見つめた。視線には評価や疑いはなく、ただ観察と受け入れの静けさがあった。
「……ようこそ。少しずつ、慣れていけるといいですね」
その言葉に、藤沢はうまく返事ができなかった。ただ、頷いた。
リナは、神崎の方に向き直る。
「神崎さん、少し時間とれますか? あとで話したいことがあって」
「もちろん。夕方には落ち着きますから、またその頃に」
「ありがとうございます」
それだけ言うと、リナは軽く一礼して去っていった。
振り返ることはなかったが、その背中に誰もが自然と目を引き寄せられていた。
「……なんなんだ、あの人」
藤沢の呟きに、神崎は小さく笑った。
「少し特別な方なんです。ここでは、リナさんを慕って集まる人たちもいます。……まあ、その話はまた後で」
タクミもスイも、まだ何も言わずに、ただリナの消えた方角を見つめていた。
この村では、人と人の距離感もまた、都市とはまるで違っていた。
日が経つごとに、三人の生活にも少しずつ変化が現れた。
スイは、ある日ふと足を運んだキッチンで、年配の女性に声をかけられた。戸惑いながら手伝い始めたそれが、翌日も、その次の日も自然と続いていった。特別な指示や当番はなく、やりたいと思えばそこにいればよかった。必要なのは、自分の意思だけ。
包丁を持ち、鍋をかき混ぜ、蒸気の中で誰かと笑い合う。都市では感じたことのない感覚だった。
「料理って……落ち着くね。火を見ると、なんか安心する」
ある昼下がり、スイがぽつりとそう言った。窓から海風が吹き込み、風鈴が小さく揺れていた。
タクミは焚き火に夢中になっていた。誰が火をつけているのか、いつから燃えているのか、誰も明言しなかったが、広場の中央には毎晩決まって火が灯っていた。日が暮れると自然に人が集まり、マットを敷いたり、楽器を持ち寄ったり、黙って酒を飲んだりしていた。
タクミは煙草をくゆらせながら、誰かの話を聞いては笑い、時に真剣な顔でうなずいた。都市では言えなかったことを、ここでは何も考えずに話せた。
夜の焚き火のそばで、彼の横顔は、どこか穏やかだった。
藤沢は、海沿いの道を歩く時間を日課にしていた。
舗装されていない小道に、足音が吸い込まれていく。波の音、風の音、鳥の声、遠くで誰かが弾く笛の音。それらがすべて混ざり合って、都市にはなかった“音の静けさ”をつくっていた。
歩き疲れると、浜辺に腰を下ろし、ノートを広げて文字を綴った。文章にならない言葉の断片、感情のかけら、記憶に残る表情。意味のない記録だったが、それでよかった。
「書くために書く」のではなく、「ただ書いてしまう」感覚。都市では失っていた何かが、じわじわと蘇ってくるようだった。
数週間が過ぎた。
村の人々とも、自然に言葉を交わすようになった。
昔、教師をしていたという白髪の老人は、朝になると必ず広場に座り、誰に向けるでもなく独り言のような読書会を開いていた。修理好きの青年は、廃材を使って風力発電機を組み立てていて、藤沢たちが覗き込むと照れたように笑った。言葉少なげな女性が、いつも海辺の岩に腰かけて詩のような独白を繰り返していた。
彼らには、過去があった。だがそれを語る必要も、隠す必要もなかった。語りたいときだけ、語ればいい。それが、この村の空気だった。
ある夜、焚き火の周りに三人が並んで座っていた。
火は音を立てずに揺れていた。誰かが細い笛を吹いていて、その音が、風に乗って広がっていた。
スイは、薪をいじりながら笑っていた。タクミは煙草を指に挟んだまま、ぼんやりと空を見上げていた。藤沢は、ただ火の奥を見つめていた。
火が照らすのは、風景ではなく、自分たちの内側だった。
何もしていない。何も成し遂げていない。ただ、ここにいる。
——なにもしないという時間が、こんなにも静かで、こんなにも豊かだったなんて。
その事実に、少しだけ戸惑いながらも、藤沢は静かに目を閉じた。
遠くから、波の音が聞こえていた。
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