#042 白銀のディシプリン

 翌日の朝。午前中の肆谷副会長との地獄の組手を、なんとか気絶せずに乗り切った僕は、昼食を挟んで、美王先生に指定された、島で最も美しい白砂のビーチへと向かっていた。

 そこには既に、美王先生と、そして、一人の見慣れない女性が立っていた。

 息を、呑んだ。

 そこに立っていたのは、陽光を浴びてキラキラと輝く、銀色の長い髪を持つ、絶世の美女だった。クラシックなロング丈のメイド服に身を包み、背筋をピンと伸ばして佇むその姿は、まるで一枚の絵画のように、完璧なまでに洗練されている。

 そして、何より目を引いたのは、その圧倒的なまでのスタイルだった。美王先生の、全てを包み込むような母性的な豊満さとは違う。彼女の身体は、無駄な脂肪が一切なく、鍛え上げられた体幹からくる、信じられないほどのくびれと、そこから広がる、重力を感じさせないしなやかなヒップラインを描いていた。静と動、その全てが計算され尽くした、究極の機能美。

 僕が、その非現実的なまでの美しさに見惚れていると、彼女は僕の視線に気づき、ゆっくりとこちらに向き直った。そして、スカートの裾を優雅につまみ、寸分の隙もない、完璧なお辞儀と共に、その名を告げた。

「――美王零音様のご招致を受け、参上いたしました。漆館家にメイドとして仕えます、冥ヶ崎命みょうがさきめいと申します。以後、お見知りおきを、七座様」

 その声は、どこまでも穏やかで、しかし、心の芯まで響くような、不思議な力を持っていた。冥ヶ崎……命さん。杏那さんの、お家のメイドさんだったのか。

 僕が呆然としていると、隣にいた美王先生が、にんまりと笑った。

「彼女が、君の新しい『先生』よ。機術学園の、あたしの可愛い後輩でもあるんだけど、メイドとしての腕前も、戦闘技術も、超一級品なんだから♡」

「……過分なお言葉、痛み入ります。美王先生」

 命さんは、表情一つ変えずに、再び優雅にお辞儀をする。

「それでは、七座様。早速ではございますが、訓練を開始させていただいても、よろしいでしょうか」

「は、はい! よろしくお願いします!」

 僕は、慌てて背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。

「まず、こちらを」

 彼女が僕に手渡したのは、僕が普段、零音先生たちにご奉仕する時に着ているものと、よく似たデザインのメイド服だった。だが、生地の質感や、細部の作りが、明らかに違う。

「それは、私が開発に携わりました、戦闘用メイド服の最新モデルでございます。着心地、耐久性、そして、ある『仕掛け』において、既存のものを遥かに凌駕しております」

 言われるがままに、僕は近くの更衣室でそのメイド服へと着替える。確かに、身体へのフィット感が全く違う。まるで、自分の身体の一部になったかのように、軽やかで、動きやすい。

「今はまだメタモフォシス・ギアとのリンクはしてないから、いちいちそうやって着替えることになるけど、この訓練の後にはしっかりリンクしておくからね」

 僕がビーチに戻ると、命さんは、満足げに一つ頷いた。

「では、まず、第一の訓練。『メイド流戦闘術メイド・フー』の基礎を、そのお身体に叩き込ませていただきます」

 彼女は、そう言うと、僕に向かって、再び、あの完璧なお辞儀の姿勢を取った。

「……え?」

 僕が戸惑っていると、彼女の身体が、ふっと、沈み込んだ。

 優雅なカーテシー。貴婦人が挨拶の際に取る、あのポーズだ。だが、次の瞬間、その優雅な動きは、牙を剥いた。

「――なっ!?」

 沈み込んだ体勢から、彼女の足が、まるで鞭のようにしなり、僕の足元を薙ぎ払う、鋭い回し蹴りへと変化したのだ。僕は咄嗟に後ろへ跳んでそれをかわすが、砂浜に着地した僕の体勢は、完全に崩れていた。

「――隙だらけでございます」

 冷たい声と共に、命さんの姿が、目の前から消える。いつの間にか、僕の背後に回り込んでいた彼女の、指先が、僕の首筋に、寸止めで添えられていた。ぞくり、と背筋に悪寒が走る。もし、これが実戦だったら、僕は今ので、確実に意識を刈り取られていた。

「『メイド流戦闘術』とは、メイドとしての完璧な所作、その全てを、必殺の技へと昇華させた戦闘術。お辞儀は、相手の重心を崩すための布石。お茶を運ぶ歩法は、音を殺し、気配を消すための隠密歩行。そして……」

 彼女は、すっと僕から身を離すと、今度は、まるでトレーを運ぶかのように、その手のひらを水平に保ち、僕へと歩み寄ってきた。

「この、給仕の姿勢は、あらゆる攻撃を受け流し、そして、カウンターを叩き込むための、最強の型となります」

 彼女は、僕にナイフを渡すと、「どうぞ、ご遠慮なく」と顎をしゃくった。僕は、戸惑いながらも、教えられた剣の型に従い、彼女の胸元めがけて、突きを繰り出す。

 だが、僕のナイフが彼女に届く寸前、その刃は、彼女の水平に保たれた手のひらに、吸い付くように受け止められた。そして、僕の力を利用し、円を描くようにいなされる。僕は、自分の力が流されていく感覚に、抗うことができない。

「――このように」

 体勢を崩した僕の脇腹に、彼女の空いた方の手が、まるで置きに行くだけのような、軽い掌底となって打ち込まれた。だが、その衝撃は、見た目とは裏腹に、僕の内臓を直接揺さぶるような、重く、鋭いものだった。

「ぐっ……!」

 僕は、その場に膝をつく。

「全ての動きに、無駄がない。それが、メイドの仕事であり、戦闘の極意でもございます。七座様、あなたには、まず、この『型』を覚えていただきます」


 それから、僕の地獄の特訓は続いた。

 ひたすらに、お辞儀を繰り返す。水の入ったグラスを落とさずに、砂浜を歩き続ける。そして、命さんの繰り出す、予測不能な攻撃を、ただ受け流す練習。

 僕が何度も砂浜に倒れ伏すたびに、彼女は、表情一つ変えずに、僕に手を差し伸べ、立ち上がらせてくれる。その手は、驚くほどに温かかった。

「……次に、第二の訓練でございます」

 命さんは僕に、いくつかの見慣れない道具を手渡した。それは、一見すると、ただのモップと、はたき、そして、一本の箒だった。

「これらは、私が開発に関わりました、特殊戦闘装備でございます。使い方を、ご説明いたします」

 彼女が、まず手にしたのは、モップだった。その柄の部分をひねると、カチリ、と金属音が響き、先端部分が銃口のように開く。

「『高圧洗浄銃ウォーター・ジェット・ガン』。圧縮した水流を、弾丸のように発射します。威力は、調整次第で、人を気絶させる程度から、鉄板を撃ち抜くことまで可能でございます」

 彼女が、近くの岩に向けて引き金を引くと、目にも留まらぬ速さで放たれた水の弾丸が、硬い岩肌に、深々と穴を開けた。

「次に、『閃光塵フラッシュ・ダスト』」

 彼女が、はたきを軽く振るう。すると、その先端から、きらきらと輝く、埃のような粒子が舞い上がった。そして、彼女が指を鳴らした瞬間、その粒子が、網膜を焼き尽くすほどの、眩い閃光を放った。

「うわっ!」

 僕は、思わず目を覆う。

「最後に、『自在箒ワイヤー・ブルーム』」

 彼女が、箒の柄にあるボタンを押すと、その穂先から、無数の、ほとんど目に見えないほど極細のワイヤーが、蛇のように射出された。ワイヤーは、近くのヤシの木に絡みつき、あっという間に、複雑な蜘蛛の巣のようなトラップを形成する。

「これらの装備は、使い方次第で、戦況を大きく覆す可能性を秘めております。ですが、一歩間違えれば、味方をも傷つける諸刃の剣。あなたには、まず、これらの正しい使い方を、徹底的に学んでいただきます。ちなみにこれらも零音様によれば、デバイスに収納できるようにするとのこと。七座様の目にする機会が多い方に例えるなら、肆谷龍弥様の鋼砕龍牙のようなものでしょうか」


 そこから先は、もう、記憶が曖昧だった。

『メイド流戦闘術』で体力を削られ、『お掃除用具』の扱いで精神をすり減らされ、僕は、夕方になる頃には、完全に、燃え尽きていた。

「……初日にしては、上々でございます、七座様」

 砂浜に、大の字になって倒れている僕を、命さんは、静かに見下ろしていた。

「ですが、この訓練は、合宿が終わるまで、毎日続きます。ご承知おきください」

 その悪魔のような宣告に、僕は、指一本動かすことすらできなかった。

 ホテルへの帰り道。命さんに肩を担がれ、引きずるようにして歩いていると、前方から、美王先生が、にこにこしながらやってきた。

「よく頑張ったわね~、ハルくん。随分と、メイドとしての立ち居振る舞いが、板についてきたんじゃないの?♡」

 その言葉に、僕は、最後の力を振り絞って、抗議の声を上げた。

「冗談、言わないでくださいよ……」

 僕の悲痛な叫びに、二人の美女は、楽しそうに、顔を見合わせて笑うだけだった。

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