絵描きと少年

@nana-yorihara

第1話

空と同じ色をした川が、とどまることなく流れている。永遠に終わらない音楽のようなせせらぎに耳を傾けていたら、時折、しゃぱしゃぱと小さな音が混ざるのに気がついた。

(鳥が魚をとっているのだろうか)

 それにしては、同じ場所ばかりで定期的に繰り返されていて、あまりに不自然だ。小さな妖精が一人、シンクロナイズドスイミングの練習でもしているのだろうか。

(不思議だな)

 四日ほど前にこの辺りに越してきたばかりのゼレックは、きょろきょろと音の源を探した。

 もう若くない彼の髪には、ちらほら白い色が見え隠れしており、長年使ってきた足の骨は、ときどきぽきりと頼りなくきしんだ。けれど、その表情はいきいきと輝き、少年のころとまるで変わりなかった。森と山に囲まれた田舎の小さな家での暮らしは、彼の内側の時間をそっと巻き戻したのだ。

 ゼレックは今、川の流れを乱す音の正体を、自分の目で確かめようとしている。音をたてるものを驚かさないように、皮靴を草の上ですべらせて足音を殺し、慎重に川への距離を縮めていった。若々しく燃え立つ緑の葉をたたえた枝をかき分けて、音が生まれる辺りをのぞく。

 ぱしゃり、という音がまた一つ、水面を叩いて空気を震わせた。音を生んだのは、明るい砂色の髪の少年が握る、細い筆だ。

 少年は、川べりに腰かけて流れに両足をゆだね、夢中になって絵を描いている。川をはさんでちょうど正面の位置に立つ木の、枝の間からのぞくゼレックの視線には、気づいていない。自分の指先が生み出すものに、全神経を集中させているのだろう。

 大きなみずみずしい葉っぱの上に、色とりどりの絵の具を広げ、時折、筆を川につけて洗っている。ぱしゃっという軽やかな音は、その絵筆の先が水をかき混ぜるときにかなでられるものだった。

 少年は、あまり上等ではないそぼくな白の画用紙に、熱心に世界を広げていく。ソファがあり、窓があり、古い新聞が風にはたはためくられている。どうやら、どこかの家の中の様子を描いたものらしかった。

 ぽんととび越えられそうなはばの川の向こう側の少年を、ゼレックは息を殺して見守る。なぜか、目の前に出ていって声をかけることができなかった。じゃましてはいけないような気がした。

 音の正体は分かったし、帰ろうと思えばすぐにでも帰れたのだが、そこから立ち去る気になれず、少年の絵が仕上がっていく過程を目で追い続けていた。

(それにしても、なんて神秘的な光景なんだろう)

 筆をおどらせている少年自身が、美しい風景とともにすでに一枚の絵になっている。ゼレックは昔、世界一大きな美術館に行ったことがあるが、名高い芸術家の残したたくさんの作品の中にさえ、こんなにきれいな絵は見当たらなかった。

 辺りは、繊細な朝陽の筆ではっきりと彩られ、岸の草と透き通る水の色、いびつに並ぶ歯のような、まちまちな年齢の木々の緑が、上手に配置されている。少年は唯一の不自然な生き物として、せわしなく手を動かし、小さな紙の上の世界を練り上げているのだ。

 少年の砂色の髪は、光をたっぷり受けてきらきら輝き、描きかけの絵をながめて幸福そうにほほえむほおは、あかね空を水で薄めたような暖かい色を宿している。ゼレックは、頭に光の輪をのせた彼を見て、名画の天使を思い出した。

 さらさら流れる水の速さで描かれていく明るい色彩の絵は、少年の家を写し取ったものなのだろうか。木の床や丸太でできたテーブル、必要なもの以外はほとんどなにもないシンプルな部屋ばかりで、ゼレックの知る家とはずいぶん違っていた。

 少年の今着ている服も、都会の子どもたちのように華やかではない。けれど、よけいなかざりがないところがかえって、子どもらしさを引き立てていた。

(名前はなんというのだろう。この辺りの子だろうか)

 ゼレックはいろいろと思いをめぐらせるけれど、少年に尋ねてみないかぎりは何も分からない。

 そうすることもできないわけではなかったが、この美しい空間を乱すのがいやだった。いっそ木になってしまいたい、とゼレックは、静かに息をしながら思う。

 軽い気持ちで訪れた森で、こんな光景に出会えるとは考えてもみなかった。外から見た森はにごった水のように暗くて、きっと誰もいないに違いない、と踏んでいたのに。

 木々を分けて進んでみたら、意外にも光はゆったりと降り注ぎ、川も流れていて、人の手で整えられていないながらにとてもきれいなところだった。ゼレックはひっきりなしに、幼いころ住んでいた田舎での日々を思い出した。都会での暮らしが長すぎたせいか、すっかり忘れてしまっていたことばかりだった。

 ゼレックの家は、ここから少し離れた集落にあるのだが、彼もそこから来たのだろうか。少なくとも、森の中では家を見かけなかったし、こんなところに住むのはさすがに不便だろう。あのくらいの年の子どもなら、学校にも通っているだろうし。

 新しい生活の場をよく知るために散歩に出た彼は、不思議な少年に目と心をうばわれてしまっていた。

(あの子は人間だろうか、それとも森の妖精か何かだろうか……)

 相変わらず聞こえるぱしゃりという音と、水の中で揺れる筆の動きを重ねながら、ゼレックはそんなことを考えていた。

 そのとき、何かに気づいたのか、少年がふいに顔を上げた。気の強そうな、くっきりとしたオリーブ色の瞳が、いぶかるような表情を形作る。

 視線が合った瞬間、ゼレックはあわてて身を引き、あとも見ずにその場から走り去った。いい大人がみっともないな、とも思ったけれど、どうすることもできなかったのだ。絵を描いているときの穏やかな目から一転した、矢のようなまなざしにつらぬかれて。

(一瞬、にらまれたように感じたが、気のせいだろうか)

 自分のしたことを思えば、無理もないかもしれないが。

 のぞき見するつもりはなく、ただ見とれてしまったのだ、とゼレックは彼に伝えそびれた。



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