天満月の影
零点
祈りがまだ名を持たぬ頃、ひとりの少年が名を失った
正徳二年の秋より、十余年を遡る。
まだ良宵ではなく、龍丸だった。
父・良治が野に消えた朝の記憶から始めよう。
父は、病む者にも飢えた者にも、薬と飯を分け隔てなく与える人だった。
――命を捧げて、命を繋ぐ。
それが父の祈りであり、私に遺された宿業だった。
「常なるもの無ける世なれば
生きる命は我が為に在らなり
捧ぐや祈り 死せる世の為
使うや命 生ける世の為
只々 世の為 人の為
されば我が為 我が子らが為」
あの子守歌の調べが、まだ耳の奥に残っている。
あれは祈りではなく、別れの声だったのだろう。
十五年を経た今、父の慈悲が私の誓願と響き合うことを知っている。
けれど、あの朝の喪失は、いまだ語られぬまま胸の底で沈んでいる。
父を探して、家を出た。
泥が足首を掴み、枝が衣を裂いた。
名を呼んでも、返事はなかった。
朝が来て、草が水の匂いを放つ。
子狼の鳴き声に導かれ、野へ出た。
二頭の親狼が寄り添い、六つの子を見守っていた。
その傍らに、服の切れ端が落ちていた。
父のものだった。
己の身を、飢えた獣に与える。
それが、父の布施であり、祈りの果てだった。
声を上げることもできず、立ち尽くした。
喉が塞がり、息が熱を帯び、胸の内側がじりじりと焼けた。
涙は出なかった。
その代わりに、指先が痛いほど震えていた。
――泣くことよりも、立っていることの方が苦しかった。
陽が昇る。
草が光を受けて、透きとおる。
命の輝きが、死の静けさを際立たせていた。
その調和は、残酷だった。
――父の慈悲は、命を繋ぐ祈りだった。
だが、その祈りは幼い私を裂くほどに重かった。
子狼の声が、風の中で跳ね返った。
鳴き声が、胸の奥に刺さった。
何を告げる声なのか、分からなかった。
布の切れ端を握り締め、歩いた。
死から遠ざかるように、ただ歩いた。
それが、まだ名を持たぬ願いだった。
* * *
熊野の山々を越え、父の足跡を追った。
川沿いを歩き、冷たい水を啜り、夜露に濡れた石を背に眠った。
父の笑顔が、風の音に混じっては消えた。
やがて、力尽きて、
愛宕山を背に、風が死者の骨を撫でていた。
この地は、死した者の風葬地だった。
母に抱かれた幼子が泣いていた。
折れた指を合わせて祈る老人がいた。
血を吐いて空を見上げる男がいた。
どの眼も、生きながら死を見ていた。
木の背に預けた。体がずり落ちた。
膝が震え、土に沈んだ。
息が細くなり、夜露が冷たかった。
草と血の匂いが、空気に混じった。
体が震え、名が喉に詰まった。
風が止んだとき、ひとりの僧が立っていた。
黒衣の裾が、風に触れて鳴った。
「……遠くから来たのだな」
僧は、草の上に握り飯を置いた。
布の切れ端を見せると、僧は静かに目を閉じた。
「良治様は……逝かれたのだな」
僧はその裂け布を撫で、掌を合わせた。
やがて、穏やかな声で言った。
「食べなさい」
私は、震える手で飯を掴んだ。
口に運ぶと、喉が焼けた。
罪のような重さと、生の熱が同時にきた。
風が吹き、骨が鳴った。
その音を聞く者が、ひとり、名を失いかけていた。
――生とは、執着の名を変えたものだろうか。
生きるとは、奪い、喰らい、それでもなお芽吹くこと。
草が倒れても、根は風を掴む。
苦の名を知らずして、誰が命を抱けようか。
――老いとは、離別の形をした恩寵だろうか。
指が震え、声が掠れても、誰かを思う。
折れた骨が祈りに似るのは、
心がまだ滅していない証なのだ。
――病とは、己を問う鏡だろうか。
血は熱を失い、肉は重さを忘れる。
それでも、眼は空を見ている。
なお此岸に心を置いている証だ。
――死とは、終わりではなく、因の解体だろうか。
父はその理を知って、己を差し出した。
獣が骨を噛み、風が肉を攫う。
命の名が消えるとき、慈悲は形を離れる。
私は、その理を見た。
祈りは、届かないものを照らすためにある。
届いてしまえば、もう祈りではない。
――ならば、私は問う。
祈りとは、誰のために燃えるのか。
苦は、何を残すために生まれるのか。
問いを捨てる者は、悟る。
だが、問い続ける者だけが、灯を持つ。
その瞬間、龍丸という名が崩れた。
問う声だけが、風の中に残った。
僧は言った。
「苦を知る者こそ、救いを持つ。
その身が問うならば、答えは道となろう」
僧が微笑み、私に手を差し伸べた。
「――この手を取るなら、今より良宵と名乗るがよい。夜を渡り、灯となれ」
「良宵」――誰が呼んだのか。
名が空気に滲み、声が皮膚を抜けた。
良宵という響きが、肉の奥で凍り、鼓動が言葉を忘れた。
父の死も、握り飯の温もりも、風葬地の骨も――すべてが遠のいていった。
風が吹き、骨が鳴った。
喉の奥で、祈りが砕けた。
血が語ろうとした言葉が、まだ温かかった。
風が運んで、名の形を失っていく。
その音が、どこかで父に似ていた。
風が止むとき、名も止まる。
風がまた吹くとき、名は蘇る。
風が吹いた。
その音を見ているものが、どこかにいた。
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