コミュ障モブ令嬢の私、誤解が積み重なり救国の聖女と崇められてしまう

旅する書斎(☆ほしい)

第1話

気がついた時、私は豪華な装飾が施された鏡の前に立っていた。

鏡に映るのは、全く知らない少女の姿だ。


艶やかなプラチナブロンドの髪。アメジストの色をした澄んだ紫色の瞳。

まだ幼さが残る顔立ちは、自分でも見惚れてしまうほど整っている。


ここはどこで、私は一体誰なのだろうか。

混乱する頭に、断片的な映像が次々と流れ込んでくる。


満員電車、鳴り響く電話、パソコンのモニターが放つ光。

そうだ。私は、現代日本の会社員だった。

そして、極度のコミュニケーション障害に、ずっと悩まされていたのだ。

人と話すのが怖い。人の目を見るのが怖い。

そんな私が、どうしてこんなに可愛らしい少女の姿になっているのだろう。


「フィリアお嬢様、準備はよろしいでしょうか」

扉の外から、落ち着いた女性の声が聞こえた。


フィリア…?

それが、この子の名前らしい。


そこで私は、全てを思い出した。

ここは、前世で私がプレイした乙女ゲームの世界だ。

そして私は、悪役令嬢の取り巻きの一人として転生してしまったようだった。

物語の本筋には、全く関わらないモブ令嬢として。


前世の記憶が曖昧だ。

ゲームの派手なイベントは覚えていても、自分の役名のような細かい設定までは思い出せない。

ただ、悪役令嬢が断罪される派手なイベントがあったことだけは覚えている。


冗談じゃない。

そんな面倒なことに巻き込まれるなんて、絶対に嫌だ。


今世こそ、平穏に生きたい。

誰とも関わらず、誰にも注目されず、誰にも意識されずに生きていく。


穏やかに学園を卒業する。それが私の、たった一つの目標になった。

そして今日が、その舞台となる王立魔法学園の入学式だった。


私は侍女に連れられて、大きな講堂へと向かう。

きらびやかなドレスを身につけた新入生たちが、楽しそうに談笑していた。

その華やかな雰囲気に、私は早くも気圧されてしまう。


だめだ、誰とも目を合わせてはいけない。

私は気配を消す特技を最大限に発揮し、講堂の隅の席に座った。

お願いだから、誰も私に話しかけないでください。

心の中で、必死に祈り続けた。


やがて、厳かな音楽と共に、入学式が始まった。

学園長の長い挨拶が、延々と続く。

私はただひたすらに、床の一点を見つめて耐えた。


早く終わってほしい。早く寮の自室に引きこもりたい。

その一心だった。


「次に、新入生代表、ジークフリート・フォン・アルフレッド王太子殿下より、お言葉を賜ります」

司会の声に、講堂内が期待に満ちた空気で満たされる。

私も、恐る恐る顔を上げた。


壇上に立つのは、燃えるような赤い髪に、空色の瞳を持つ青年だった。

息をのむほど美しい。

彼が、このゲームのメイン攻略対象であるジークフリート王太子だ。


その姿を見た瞬間、周りの令嬢たちから、ため息のような歓声が上がった。

「まあ、素敵……」

「ジークフリート殿下、今日も本当に美しいわ」


皆がうっとりと王太子を見つめている。

しかし、私はそれどころではなかった。

王太子と、目が合ってしまった気がする。


そんなはずはない。

ここは広い講堂で、私は一番隅の席にいるのだから。

きっと、気のせいだ。


そう自分に言い聞かせたが、心臓は嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。

緊張で、手足が冷たくなっていく。

私は再び俯き、自分のドレスの裾を固く握りしめた。


ジークフリート王太子の祝辞が始まった。

凛とした、よく通る声だ。

だが、その内容は全く頭に入ってこない。

早く終わって。早く終わって。

私は念仏のように、心の中で繰り返した。


その時、隣に座っていた令嬢が、小さな声で私に話しかけてきた。

「ねえ、あなた。殿下のお話、素晴らしいですわね」


ひっ。

話しかけられた。


どうしよう。何て返事をすればいい?

私の頭は、完全にパニック状態に陥った。


声が出ない。体が、固まって動かない。

令嬢は、私の反応がないことを不思議に思ったのか、もう一度声をかけてくる。

「あの、聞いてらっしゃって?」


だめだ、もう無理だ。

私はただ、こくこくと、無言で頷き続けることしかできなかった。

幸い、令嬢はそれ以上は何も言ってこなかった。

興味を失ったように、再び壇上へと視線を戻す。


助かった。

心から安堵のため息をついた。


長い長い祝辞が終わり、入学式は閉会となった。

私は誰よりも早く席を立つと、全速力で講堂から逃げ出した。

一刻も早く、安全な場所である自室に戻らなければ。


私は必死だった。

だから、前を見ていなかった。


ドンッ、と誰かにぶつかってしまう。

「きゃっ」

可愛らしい悲鳴が聞こえた。


見ると、床に尻もちをついている少女がいた。

ふわふわの栗色の髪に、大きな瞳。

質素だが、清潔感のある制服。


彼女が、このゲームの本来のヒロイン、リリアンヌだ。

平民出身の特待生で、その可憐な容姿と健気な性格で、次々と攻略対象たちを虜にしていく。

……という設定だったはずだ。


その裏では、計算高く成り上がりを狙っていることも、私は断片的な記憶で知っている。

「ご、ごめんなさい! 私が前を見ていなかったから……」

リリアンヌは、潤んだ瞳で私を見上げてくる。


完璧なヒロインムーブだ。

ここで私が「こちらこそごめんなさい」と手を差し伸べるのが、正しい対応なのだろう。

だが、今の私にそんな高等技術ができるはずもない。


人とぶつかってしまった。

どうしよう。謝らないと。

でも、声が出ない。

パニックで、頭が真っ白になる。


「あの……?」

不思議そうに首を傾げるリリアンヌ。

周りの生徒たちも、何事かとこちらに注目し始めている。

視線が痛い。怖い。

もう、限界だった。


私は、リリアンヌに何も言えず、背を向けてその場から全力で走り出した。

「え……?」

後ろから、リリアンヌの戸惑ったような声が聞こえた気がした。

でも、もう振り返ることはできなかった。


ごめんなさい。ごめんなさい。

心の中で謝りながら、私はひたすら自分の寮の部屋を目指して走り続けた。


ようやくたどり着いた自室の扉を開け、中に入った瞬間に鍵をかける。

そして、そのままドアにへたり込んだ。

「はぁ……はぁ……」

心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。


なんてことだ。

入学初日から、最悪の失態を演じてしまった。

ヒロインとぶつかって、何も言わずに逃げ出すなんて。

きっと、性格の悪い、無礼な令嬢だと思われたに違いない。


これからの学園生活、どうなってしまうのだろう。

もう、誰とも顔を合わせられない。

私はベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめた。

ああ、もう帰りたい。

前世の、狭くて汚いワンルームの部屋に。


私がこうして一人、絶望の淵に沈んでいる頃。

学園内では、とんでもない噂が広まり始めていたことを、知る由もなかった。


「ねえ、聞きました? さっきの、クライン伯爵家のフィリア様のこと」

「ええ、もちろん! 特待生のリリアンヌさんを、一瞥もせずに立ち去ったという、あのお話ですわね!」

廊下のあちこちで、令嬢たちが興奮したように囁き合っていた。


彼女たちの会話の中心にいるのは、間違いなく私、フィリア・フォン・クラインだった。

「聞くところによると、リリアンヌさんがフィリア様にわざとぶつかったらしいですわよ」

「まあ、なんてこと! きっと、フィリア様が殿方に注目されていたから、嫉妬したのね!」

「フィリア様は、そんな彼女の邪悪な本性を一瞬で見抜かれたのよ。だからこそ、憐れみの言葉一つかけず、その場を立ち去られたのだわ」

「なんと……! まるで、濁った水の中の真実を見通すような、清らかな瞳をお持ちなのね!」

「ああ、フィリア様こそ、真の貴婦人だわ!」


私の奇行は、彼女たちのたくましい想像力によって、百八十度違う意味に解釈されていた。

ただパニックで逃げ出しただけなのに、いつの間にか私は、腹黒いヒロインの本性を見抜いた、洞察力に優れた令嬢ということになっていたのだ。


そして、その噂は、一人の人物の耳にも届いていた。

「フィリア・フォン・クライン……か」

生徒会の執務室で、ジークフリート王太子が、報告書を読みながら興味深そうに呟いた。


入学式の時、一人だけ誰とも話さず、自分の祝辞を聞いていた少女。

その凛とした佇まいは、彼の記憶に強く残っていた。

周りの令嬢たちが、いかに自分に取り入ろうかと必死になっている中で、彼女だけが全く違う空気をまとっていた。


(媚びることも、気取ることもない。ただ、そこにいるだけで気品が漂う。あのような令嬢がいたとはな)

ジークフリートは、人の裏表に敏感だった。

だからこそ、計算高いリリアンヌのことも、内心では警戒していた。


そんな彼女の本性を、あのフィリアという令嬢は見抜いたというのか。

「面白い。実に、面白い」

ジークフリートは、口の端に笑みを浮かべた。

彼の心は、まだ見ぬ謎多き令嬢、フィリアへの好奇心で満たされていた。


一方、そんなこととは露知らず、私は寮の自室でシーツを頭までかぶり、ぶるぶると震えていた。

「もう学園に行きたくない……」

明日から、私はどうやって生きていけばいいのだろうか。

私の平穏なモブライフ計画は、始まってわずか一日で、早くも崩壊の危機に瀕していた。

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