川は市民を忘れない――条例群像劇・豊橋未来川記
共創民主の会
第1話 川は約束を破っても流れる
「川は、一度でも堤防を決壊させたら、もとの流れには戻らない」
七月十五日、午前七時二十分。市長室のブラインドを開けると、豊川の水が朝日を受けて金色に燃えていた。今日こそ、あの川が市役所の壁を越える日かもしれない。
机の上には、住民投票の最終集計票が置かれていた。賛成75・3%。反対24・7%。有効投票率63・8%。数字は会計課が今朝五時にファックスで回したものだ。私は数字の下に、孫の隼人が描いたクレヨンの川を重ねて見た。三歳児にしては筋がいい。左から右へ、ただひたすらに右へ。だが、実際の川は途中で分流したり、遡上したり、時には涸れてしまう。
ノックの音が三回。秘書課の斎藤君が顔を出す。
「市長、記者クラブが集まりました。会見室は八時十分開きです」
「わかった。それより、議会事務局からの書類は?」
斎藤君は無言で茶封筒を差し出した。中身は一枚だけだった。
≪豊橋市契約条例第12条の2に基づき、多目的屋内施設整備業務委託契約の解除を議決する条例案を、本会議において再可決した旨、通知いたします≫
署名は宮本事務局長。日付は昨日――住民投票実施日だ。つまり、彼らは投票所が閉まるのを待っていた。開票結果など、どうでもよかったということか。
私は封筒を引き出しに放り込み、ネクタイを直した。シルクの地味な紺。妻の芙美が誕生日にくれたやつだ。議会の最中に「自治法違反だ!」と叫ばれたとき、首筋に汗が伝ってこのネクタイが吸った。乾いて、また汗が吸われる。五年目の今も、染みは抜けない。
会見室には、地元紙・県紙・放送局の記者が十五名いた。一番前に陣取ったのは、中日新聞の藤原編集長だ。私が市議会の新米記者だった頃、彼はすでにキャップをしていた。
「市長、住民投票の結果を受けて、施設建設を即再開されるおつもりか」
私は深呼吸をして、マイクに向かった。
「豊橋市の基本条例により、住民投票結果は市の施策に『努めて尊重』されるものと定められています。率直に申し上げて、75・3%という数字は重い。しかし、同時に、議会が再可決した契約解除条例も、法の下に存在する」
カメラのシャッター音が、蝉の羽音のように響いた。
「本日午後一時から、副市長以下、関係課長を集めて対応を協議します。結論は今夜中に。私は、川の流れを止めることはできません。ただし、堤防をどこに築くかは、市長の責任だと考えています」
質問はさらに三十分続いた。最後に藤原編集長が小声で囁いた。
「山城さん、君の川は、いつも濁ってるな」
私は苦笑いだけで答えた。濁っているのは、上流で土砂が崩れているからだ。それを知っているのは、下流で水をくむ者だけ。
午後一時。副市長室に、石黒正道が腕を組んで待っていた。
「市長、議会事務局が『基金創設案』を正式に拒否しました。宮本さんは、『住民投票はあくまで参考意見。議会の議決が優先される』と」
私は、窓の外を見た。豊橋公園の方角から、豊橋まつりの囃子が風に乗ってくる。子どもの頃、父に肩車してもらって見た山車の音だ。
「石黒さん、君はどう思う?」
「私は技術官僚です。法律に従います。ただし――」
彼は、タブレットを開いた。画面には、地元建設会社「昭和建設」の決算書が映っていた。赤字三年連続。従業員百二十名のうち、三十名が年内で定年。彼らの工場は、多目的施設の鉄骨工事を見込んで、新たな溶接機を導入したばかりだ。
「法的には、議会の議決が正しい。だが、町の空き家が増え、商店街にはシャッターが下りる。若者は県外へ。高齢者は『未来は不要』と貼り紙をする。そんな中、75・3%が『施設を建ててほしい』と言った。これは、もう数字の問題じゃない」
私は、机の上に置かれた「選挙公約ノート」を開いた。五年まえの市長選で、私は「子どもたちに未来の空間を」と宣言した。ページの隅に、孫の隼人が落書きしたロケットが宇宙へ向かっている。ロケットの下に、私は赤字で書き添めた。
――公約は、孫への約束だ――
そのとき、ノックもなく扉が開いた。宮本事務局長が、二人の職員を従えて入ってきた。
「山城市長、議会の意思をお伝えしました。契約解除は、地方自治法第96条の2に基づく正当な手続きです。今後、基金創設などの新たな財政支出は、議会の議決なしにはできません」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「宮本さん、議会は住民の代表ですか、それとも議員の独善ですか」
「二者択一は無意味です。議会制民主主義とは――」
「わかっています。だが、民主主義にも、川の流れがある。上流で毒を流せば、下流で魚が死ぬ。私は、魚を見ている」
宮本は、薄く笑った。
「市長の言う魚は、建設業者のことですか? それとも、次の選挙のことですか?」
私は、答えなかった。答えられなかった。
午後四時半。私はひとりで豊橋公園を歩いた。山車の周りには、浴衣の若者と、座り込む高齢者がいた。祭りの夜は、温度と湿度が同じになる。肌に張り付く空気の中で、私は建設予定地のフェンスに近づいた。
「こんなもん、いらんちゃう!」
声は、古民家の軒下から上がった。白髪の女性が、孫らしき少年に言い聞かせている。
「おばあちゃんの家の前に、でっかいビルができたら、風通しが悪くなる。風が止まったら、豊橋は腐る」
少年は、スマートフォンでゲームをしながら答えた。
「でも、おばあちゃん。ぼくたち、雨の日にサッカーできない。屋内施設があれば、全国大会も夢じゃない」
「夢なんて、寝てりゃ見られる」
私は、フェンスに手を置いた。そこには、反対派のシールが貼られていた。「未来は不要」。文字は、刷り込みではなく、毛筆で書かれている。筆圧が強く、用紙が破れそうだ。
すると、背後から声がした。
「市長さん、どっちの味方ですか」
振り返ると、浴衣の少女がアイスキャンディーを舐めながら立っていた。年齢は十歳前後。隼人と同じだ。
「私は、川の味方だ」
「川?」
「川は、右にも左にも流れない。ただ、低い方へ低い方へ。でも、川の低さが、人を海へ連れてく」
少女は、不思議そうに首を傾げた。そのとき、遠くで鐘が鳴った。午後五時。知事宛ての審査申し立て期限まで、あと七時間。
夜、九時。自宅の書斎で、私は公約ノートを開いた。ページの最後に、空白が残っている。そこに、隼人への手紙を書いた。
――隼人へ――
おじいちゃんは、今日、約束を破ることにした。
多目的施設は、議会の手で止められた。
でも、約束は形を変えて残る。
おじいちゃんは、新たな基金をつくる。
名前は「豊橋未来川基金」。
議会が認めなくても、市民の手で川は流れる。
おじいちゃんの代では、海に届かないかもしれない。
でも、川は止まらない。
おじいちゃんは、川になる。
おまえがロケットを描いたように、
おじいちゃんは川を描く。
約束は、形を変えても、川の低さのように、
いつか海へ届く――
手紙を折りたたみ、駄菓子の袋に入れた。隼人が来週泊まりに来る。夜食に必ず食べる、三十円のチョコビーだ。
私は、パソコンを開いた。知事宛ての審査申し立て書のファイルが、デスクトップにあった。タイトルは「地方自治法第176条に基づく・・・」。
マウスを合わせ、右クリック。
削除。
ゴミ箱を空にする。
窓の外で、豊川のせせらぎが聞こえた。夜の川は、昼のように金色ではない。だが、低く、確かに、低い方へ。
私は、公約ノートの最後の空白に、赤字で書き添えた。
――市政は、住民の声を受けて形を変える川のようなもの。
川を止めるものは、誰もいない――
そして、隼人の落書きしたロケットの下に、小さな川を描いた。ロケットは、川を越えて宇宙へ向かう。川は、ロケットを見送りながら、低く、低く、海へ。
時計は、午後十一時五十九分を指した。
期限は、過ぎた。
だが、川は流れている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます