【第二章】過去か今か
かろうじて館と呼べる木製の建物が、ウィズダム・ベミルの屋敷だった。館の外観は大きく、石の生け垣に囲まれた敷地内には衛兵の宿舎や馬舎もあったが、屋敷自体はとても質素で、目立った装飾は施されていなかった。この屋敷にはウィズダムと彼の三世代の家族が住んでいて、その中にクラリアの両親も入っていた。
種族は不老不死で無限の若さを保てるが、土地は有限である。貴族だからといって誰もが封土を持つわけではなく、大多数の貴族はクラリアの両親のように、領主である親か祖父母の領地に住まい、彼等の配下として仕えている。クラリアの両親が領主となるためには王やベミル家当主から土地を任されるか、ウィズダムが新たに領地を手に入れ、彼に封土の一つを託されるかの主に二択だ。最近のバルデモラ王国の情勢を見ると、そのどちらも当分ありそうもない。
クラリアにとって屋敷での生活は退屈だった。彼女の祖母や母、従姉妹なんかはタペストリーを縫ったり、編み物等をしたりしているが、クラリアはそのどちらも苦手であった。針を手に持つより、剣を握りたい。勇者や騎士の姿を縫うより、その姿そのものになりたい。家族との関係は悪くなかったが、彼女達はクラリアの考えが理解できず、クラリアも同じ思いを祖母達に抱いていた。エルフ帝国の慣習を引き継いだ帝国では女性にも戦う道があるが、人間の王国の文化を継承したバルデモラ等の諸王国ではそうではなく、クラリアのように戦う術に興味を抱く女は殆どいないのだ。
クラリアは今日も屋敷を飛び出し、馬の上から長剣を振るったり、短弓を放ったりして武術を高める。加速を味方につけた斬り込みは標的の草木を寸断し、疾走状態からの矢の一撃は木に実った果物を射抜く。大抵は見事に正確に。
彼女の新しい友人は兄達のようにクラリアの失敗を笑わず、衛兵のように成功を過度に褒めたりしなかった。それがクラリアにとって心地よかった。
ウラルドは剣術に対しては完璧であったが、弓術、特に馬に乗りながらの弓射は不得手であった。クラリアはウラルドが自分のミスに首をひねるのをクスクスと笑い、貫通した果物を持ってきて「やっと仕留めた」と嬉しそうにするウラルドに微笑んだ。
ウラルドは剣術を、クラリアは弓術を。二人はお互いの技術を称え、相手に自分の技術を教えた。そんな二人の姿は正しく友であり、仲間であった。
二人は昼になると、川辺で休んだ。クラリアが厨房から持ってきた(くすねたとも言える)パンを食べた。
「そうじゃなくて……こうやって」と、クラリアは手に掴んだ石を水平に投げ込んだ。石は水面を数回バウンドし、波紋を広げて沈む。「コツを掴めば簡単よ」
ウラルドは石を拾うと、クラリアの動作を真似て投げた。彼の投げた石は水面を一回跳ねると、ポチャリと水の底へ落ちていってしまった。
「駄目だ」ウラルドはため息混じりに笑った。「上手くできないよ」
「前よりは良くなってるわ。前は全部ドボンだったもの」と、クラリアは表情を緩ませた。「まぁ、それでもひどいもんだけどね。あなたが、ここらへんの出身じゃないことは分かったわ。森に住まう者なら、誰だって石投げや木登りが得意だもの」
「そうみたいだ」
「バルデモラの騎士でもなさそう。あなたの剣術や馬術は凄いけど、馬上から正確に矢を射てなきゃ、騎士として認められないわ」
「わからないぞ? あなたは騎士じゃないけど、馬上から矢を放つのが上手い。その反対の騎士がいてもおかしくない、そうは考えられないか?」
「まず、ないわね」と、笑いながらクラリアは籠からパンを取り出した。「あなたがザイセン王国の悪辣な騎士なら別だけど」
「ザイセン王国?」
「ええ、そう。侵略者の国よ。あそこの騎士達は剣の使い手が多いけど、弓は不得手だからね」
「もし、そうだったらどうする? 私を殺す?」
「まさか。せっかく助けた命よ。殺したりしない」と、クラリアは笑った。「だけど、そうだったら終末の日まで隠し通さないと。村の人達にバレたら八つ裂きでは済まないわ。多分ね」
「恐ろしいな」
「まぁ、でも大丈夫よ。あなたは悪辣じゃないし、獣じゃないから」と、クラリアが言ったところで彼女の愛馬がウラルドの顔に鼻をこすりつけた。「ふっ、“彼女”にも気に入られてるみたいだし。めったに無いわよ? ヴィリッドがこんなに懐くなんて」
「そりゃ、うれしい」と、ウラルドは馬を撫でた。
午後の陽は、川辺の水面に反射して眩しく揺れていた。二人の影は寄り添うように並び、揺れる木々の隙間から洩れる光が、風に合わせてその形を変える。
川のせせらぎが静かに響き、鳥の声がその合間を縫うように聞こえた。時間の流れが、まるで少しだけ緩やかになったかのようであった。
クラリアは川面に映る自分の顔を覗き込み、濡れた石を指で転がした。
「ねぇ、ウラルド」クラリアが顔を上げた。「もし、記憶を取り戻したらどうする?」
「どうするって?」
「この村から出ていって、元の場所に戻るの? 家族や故郷の元に」
「待っている家族がいて、帰る家があるならな」
「そう」
クラリアは少しだけ間を置き、頷いた。
「だけど、もしもお尋ね者とか、山賊とかだったら過去は捨ててこの村で暮らそうかな」
「お尋ね者ね。あなたがそんなふうには見えないけど」
「分からないぞ? ゾッとするような殺人鬼かもしれないし、無法者かも」
クラリアはフッと笑った。
「……ときどき無性に怖くなる時がある」
ウラルドの言葉にクラリアは顔を向ける。
「……怖い?」
「ああ、自分の過去を思い出すのがね……覚えていないだけで、私は誰かを殺したかもしれないし、誰かに恨まれているかもしれない。今は村の人達に受け入れられていても、過去の自分はそれに値しない存在だったのかもしれないだろう?」
クラリアはしばらく黙って、川面に流れていく木の葉を見つめた。風がそっと頬を撫で、金の髪を揺らす。やがて、静かに口を開いた。
「もし、そうならそんな過去捨てちゃえばいいのよ」
その声は、川のせせらぎの上に溶けていくように柔らかかった。
「この村では、誰もあなたの“過去”なんて見てない。みんな、“今”のあなたを見てる。ウラルド、あなたのね。木を伐り、手を貸し、誰かを助ける。それがあなたよ」クラリアは小さく笑った。「過去なんて関係ない」
ウラルドはその笑みに、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
◇
「まさか魚の腸取りで一日が潰れるとはね……」
血だらけの手。生臭い匂い。自分を見つめる魚の目。
ガーリは桶の中の魚をひっくり返し、くたびれた声でため息をついた。
ドラゴンランプの明かりが魚の鱗を照らし、ぎらぎらと反射する。
「どうして俺がこんなことを……」
手元の短刀で魚の腹を裂きながら、ガーリはぼやいた。川魚の内臓を取り出し、腸を箱の中へ、魚を樽の中へ放り込む。酸っぱい臭気が鼻を刺す。
隣ではラルツァが笑っていた。革のエプロンを羽織り、魚の尻尾を掴んでいる彼女は美しくも勇ましかった。
「とんだ二人っきりの休日になったわね」
「まったくだよ。親父さん知ってるよな? 俺が生の魚が──」
ガタン! ガタン!
ガーリの愚痴は、けたたましい物音で消え去った。辛うじて息があった魚をラルツァが思いっきり台に叩きつけたのだ。頭に衝撃を食らった魚は微動だにせず、ラルツァは慣れた手つきで腹部を捌いていく。
「……苦手だってことを」
「もちろん知ってるわ」腸を取り出しながらラルツァは言った。「だから今のうちに慣れさせようとしてるんじゃない? 私と結婚したら嫌でもこれをする羽目になるんだろうし」
「慣れるどころかますます苦手になりそうだけどな……」
「ふっ、我慢して」ラルツァは、痙攣する魚を叩きつけた。「大丈夫そのうち慣れるから」
「だといいけども」
数時間後、二人の後ろには魚が敷き詰められた樽が何個も積み重なっていた。目の前の作業台の木肌には血の跡が薄く残っており、腸が納められた箱が山積みになっている。腸を抜かれ、塩をまぶされた魚はこの後一週間をかけてフライやその他の料理として消費されるだろう。使いきれなかったら保存食として保管される。遠い島国であるイニシエの民には信じられないが、大陸には魚を生で食べる習慣が殆どないのだ。
スルト(レモンによく似た柑橘類)がよく合う、皮をパリパリに焼いた魚。油で程よく揚げた魚のフライ。どれもバルデモラの伝統料理だ。
「やっとか」ガーリは息を吐いた。
「お疲れ様」ラルツァはガーリの肩を叩いた。
「やめろよ、匂いがつく」
「ふふ、大丈夫よ」
「おい、終わったか?」
声の主はラルツァの兄、バルナンだった。
分厚い肩幅に無精ひげを生やした男で、いつも厳しい目をしている。
「あ、バルナン兄さん」ラルツァは微笑んだ。「終わったわ、全部ね」
「人使いが荒いって親父さんに言っといてくれ」と、ガーリは服の匂いを嗅いだ。「やっぱり匂いがついちまった……お前が触るからだぞ」
「ごめんって」ラルツァは肩をすくめた。
「いちゃつくなら俺のいないところでやってくれ」バルナンは言った。「もう少しで店を開く。その前にラルツァ、お前は風呂に入ってこい。ガーリはラルツァの次だ」
「一緒に入っても?」ラルツァの言葉にバルナンは妹を睨む。「嘘……今のは冗談」
「早く行くんだ。開店までそんなに時間がない」
「はーい」
倉庫から出ていくラルツァ。彼女のブーツの足音が遠くなっていく。
「風呂で匂いを取っても、俺は接客は御免だからな?」
「安心してくれ、期待してない」と、バルナンは笑った。「それで、今日の報酬だが、銀貨1枚でいいか?」
「別にいらないよ」
「そういうわけにはいかん。一日手伝わせたんだ。受け取ってくれ」バルナンは銀貨を1枚差し出した。「結構厳しいんだろう?」
「……なら、お言葉に甘えて」
ガーリが銀貨を受け取ると、バルナンは紙を取り出し、スラスラと羽根ペンを走らせた。
「確かに俺は銀貨一枚をガーリ・ヘルツァに渡した。間違いないな?」
「……はじまったよ」
「間違いないな?」
「ああ、間違いないですよ」
「なら、ここに署名を」
文章の一番下をバルナンは手で示した。文章はバルナンが店の資金からガーリに銀貨一枚を報酬として手渡した事が書かれていて、その下に署名欄があった。
「きっちりしてるな。こんなの作ったって、お前の親父さんは読まんとおもうがね?」
「はやく」
「はいはい」
ガーリは自分のフルネームを書き殴った。
「よし、スペルミスはないな?」
「自分の名前を書き間違える馬鹿はいないよ」
バルナンはきっちり署名欄に目を通したあと「よし」と呟き、紙を畳んだ。
「ラルツァが帰ってくるまでここにいろ」
「はいよ」
「何もつまみ食いするなよ」
バルナンは倉庫を後にした。
「この臭いの中、つまみ食いできるかって」
一人になったガーリはそう呟いた。
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