第1話 平穏な日常

 テレビ出演から一週間が経った静岡県清水市は、初秋の穏やかな陽射しに包まれていた。港町特有の潮の香りが街全体を包み込み、カモメたちの鳴き声が青い空に響いている。駿河湾から吹く風は心地よく、街を行き交う人々の顔にも穏やかな表情が浮かんでいた。


 地元出身のTransient Bubblesが全国放送のテレビ番組に出演したことで、この小さな港町には今までにない活気が生まれていた。商店街を歩けば、あちこちでバンドの話題が聞こえてくる。


「あの子たち、本当に立派になったわねえ」


 魚屋のおばさんが常連客と話している声が聞こえる。


「中学生の頃はあんなに小さかったのに。今じゃ全国のテレビに出るなんて」


「でも地元を忘れないところがいいわよ。来月のライブも清水でやるって言ってたし」


 こうした会話が、街のあちこちで繰り広げられていた。普段は静かな港町が、久しぶりに明るい話題で盛り上がっていた。


 清水駅前の小さなレコード店「メロディーズ」では、七十代の店主である渡辺老人が、店頭にTransient Bubblesの最新アルバムを大きく飾っていた。普段はクラシックや昭和歌謡が中心の品揃えだったが、この日ばかりは現代のポップスが主役だった。


「いやあ、まさかこの店からこんなに有名なアーティストのアルバムが売れる日が来るとはなあ」


 渡辺老人は満足そうに呟きながら、アルバムジャケットを丁寧に拭いていた。五人の若者が微笑む写真は、まさに現代の青春を象徴していた。ユウマの人懐っこい笑顔、サラの上品な微笑み、カズキの照れたような表情、ソウタの元気な様子、リョウのクールな佇まい。それぞれが個性的でありながら、五人が一つになった時の調和が美しかった。


「お客さん、このアルバムいかがですか?」


 店に入ってきた若い女性に声をかけると、彼女は目を輝かせた。


「あ、Transient Bubbles!地元出身なんですよね?すごいじゃないですか」


「そうそう、みんなこの辺りで育った子たちなんですよ。昔はよく駄菓子屋やゲームセンターで遊んでいたものです」


 渡辺老人は嬉しそうに話し続けた。地元の子供たちが全国区で活躍することは、この街に住む人々にとって大きな誇りだった。


 一方、清水港では漁師たちが船の整備をしていた。港の作業場からは、トランペットを練習する高校生の音が聞こえてくる。清水は古くから音楽が盛んな土地柄で、特に吹奏楽では全国的にも有名だった。そんな音楽的土壌から生まれたのが、Transient Bubbles(トランジエント・バブルズ)だった。


「あのバンドの子たち、昔はよくここの堤防で歌の練習してたよな」


 年配の漁師が若い衆に話しかけた。


「そうですね。夕方になると、よく聞こえてきました。あの頃はまさかテレビに出るようになるとは思いませんでしたけど」


「才能のある子は違うんだな」


 海風に混じって聞こえてくる高校生の練習音は、かつてこの場所でTransient Bubblesのメンバーたちが夢を語り合った時代を思い起こさせた。


 清水市立図書館では、司書の女性がインターネットでバンドの記事を読んでいた。彼女の名前は鈴木麻衣、三十代前半の真面目そうな女性だった。


「へえ、新曲の『Winter Fragments』がオリコンチャート十位に入ったのね」


 彼女は感心しながらニュースサイトを見ていた。記事には、バンドの地元愛についても触れられている。


「来月の清水でのライブは完売。地元の人々も楽しみにしているようです」


 図書館の利用者たちも、バンドの話題で持ちきりだった。


「あの子たち、本当に頑張ってるわね」


「歌詞も素敵よ。青春の気持ちがよく表現されてる」


「『Winter Fragments』なんて、聴いてて涙が出そうになったわ」


 このような会話が図書館の休憩コーナーでも聞こえてきた。Transient Bubblesの音楽は、世代を超えて愛されているようだった。


 午後三時頃、清水駅前の商店街は買い物客で賑わっていた。主婦たちが夕食の買い物をし、学校帰りの高校生たちがコンビニに立ち寄る、いつもの光景だった。


 商店街の中程にある小さな喫茶店「カフェ・ポルト」では、常連客たちがコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。店主の田島さんは五十代の穏やかな男性で、この街で三十年近く喫茶店を営んでいた。


「マスター、Transient Bubblesの子たち、昔はよくここに来てたよね?」


 常連客の一人が尋ねた。


「ああ、よく来てたよ。五人でワイワイやってね。あの頃はまだ高校生だったかな」田島さんは懐かしそうに答えた。「いつも端の席に座って、音楽の話ばかりしてた。夢を語る目がキラキラしててね」


「そんな時代があったのね」


「みんな礼儀正しい子たちだった。特に女の子…サラちゃんだったかな?とても上品で、大人しい感じの子だった」


 田島さんの記憶の中では、サラはいつも少し控えめで、他のメンバーの話を静かに聞いているタイプだった。しかし、歌を歌う時だけは別人のように表情が変わった。


「男の子たちもそれぞれ個性的だったよ。ユウマくんはリーダー格で、みんなをまとめるタイプ。カズキくんはギターの練習ばかりしてて、ソウタくんは元気いっぱい。リョウくんはクールだけど、実は優しい子だった」


 こうして語られる過去の思い出は、現在の彼らの活躍と重なって、より一層の感慨を呼び起こした。


 夕方になると、清水の街は美しい夕焼けに染まった。駿河湾に沈む夕日は、この街の自慢の光景の一つだった。オレンジ色に染まった空と海は、まるで絵画のようだった。


 清水市内の住宅街、静かな一角にある田中家では、夕食の準備が始まっていた。この家に住む田中美代子さんは五十二歳、夫の田中正夫さんは五十五歳の真面目な会社員だった。そして二人の息子である慎也は二十二歳、地元の建設会社で働いている。


 美代子さんは台所で野菜を切りながら、テレビから流れてくるニュースに耳を傾けていた。地元のニュース番組では、Transient Bubblesの活躍が取り上げられていた。


「へえ、本当に立派になったのね」


 彼女は感心しながら呟いた。息子の慎也と同世代の若者たちが全国的に活躍している姿を見ると、母親として誇らしい気持ちになった。


「慎也も頑張ってるけど、あの子たちみたいに全国で有名になるなんて、すごいことよね」


 美代子さんは慎也のことを思い浮かべた。真面目で大人しい息子だが、最近は仕事も順調で、友人関係も良好なようだった。ただ、以前に比べて外出することが多くなったような気もしていた。


「でも、それも若いうちだけよね。友達付き合いは大切だから」


 彼女は一人で納得しながら、夕食の準備を続けた。


 午後六時頃、正夫さんが会社から帰宅した。建設会社の現場監督をしている彼は、日焼けした顔に疲労の色を浮かべていた。


「お疲れさま。今日も遅かったのね」


「ああ、現場のトラブルがあってね」正夫さんは手を洗いながら答えた。「慎也はまだ帰ってないのか?」


「今日は友達と会うって言って出かけたわ。夕食はいらないって」


 正夫さんは少し眉をひそめた。「最近、外泊が多いな」


「でも無断で泊まることはないし、ちゃんと連絡はくれるから大丈夫よ」美代子さんは夫を安心させるように答えた。「二十二歳なんだから、ある程度の自由は必要でしょ」


「そうだな。でも心配になることもある」


 正夫さんの心配は、父親として自然なものだった。息子が大人になっても、やはり気にかかることは多い。


 夕食を済ませた後、二人はリビングでテレビを見ていた。ニュース番組では様々な話題が取り上げられていたが、地元のTransient Bubblesの話題が出ると、二人とも興味深そうに見入った。


「あの子たち、本当にいい歌を歌うわね」美代子さんが感心した。「歌詞も素晴らしいし、メロディーも美しい」


「そうだな。地元の誇りだ」正夫さんも同意した。


 午後十時頃になっても、慎也からの連絡はなかった。しかし、これは最近では珍しいことではなかった。友人と遊びに行った時は、よく遅くなることがあった。


「今日は泊まるかもしれないわね」美代子さんが呟いた。


「そうかもな。まあ、連絡があれば問題ないだろう」


 二人はそれほど心配することもなく、就寝の準備を始めた。


 しかし、翌朝になっても慎也は帰ってこなかった。そして、携帯電話への連絡も取れなかった。美代子さんは次第に不安になり始めた。


「おかしいわね。いつもなら連絡をくれるのに」


 正夫さんも心配そうな顔をした。「会社に電話してみるか?」


 慎也の勤める建設会社に電話をしてみると、彼は昨日は普通に出勤し、定時に退社したということだった。特に変わった様子もなかったという。


「やっぱり友達と遊びに行ってるんじゃないか?」正夫さんは妻を安心させようとした。「若いうちはそんなものだ」


 しかし、美代子さんの不安は消えなかった。息子の性格を考えると、無断で外泊するようなことは考えられなかった。


 昼になっても連絡がないため、美代子さんは慎也の友人たちに電話をかけてみた。しかし、誰も彼の居場所を知らなかった。


「昨日は会ってない」


「最近はあまり連絡を取ってない」


「何かあったんですか?」


 友人たちの証言は一致していた。慎也は昨日、誰とも会っていないようだった。


 美代子さんの不安は確信に変わった。何かが起こっている。息子に何かが起こっている。


 午後になって、美代子さんは意を決した。警察に相談するしかない。


 清水の街は相変わらず穏やかな午後の陽射しに包まれていた。しかし、田中家には重苦しい空気が漂っていた。一人の青年の失踪が、この平和な日常に小さな波紋を投げかけようとしていた。


 そして、まだ誰も気づいていなかった。この失踪が、やがて起こる大きな事件の序章に過ぎないということを。静かな港町に、見えない危険が忍び寄り始めていた。

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