第4話 どうして、知ってたの?
登校の朝、吐く息はすぐに吹雪にちぎれた。
風が雪を横へ叩きつける。マフラーをぎゅっと持ち上げても、白い粒がすぐ頬に張りついて溶ける。
わたしは足もとを確かめるように歩きながら、肩をすくめた。
前を行く真夜の背が、雪けむりに半分消えている。あの廊下で放った言葉が、ふと耳に戻ってくる。――坂下の交差点、事故が起きる、と。
本当に、伝わっているのだろうか。
「今日、ほんとに授業やるんだね」
真夜が声を張った。肩口に降りかかる雪を払いながら、いつもより明るい調子を作っている。
「……うん。そうみたい」
わたしは答え、彼女の横に並ぶ。風の音に負けないようにすこし強めに言葉を置く。
「一昨日、言ってたこと、覚えてる?」
真夜が足を止めた。まつ毛にかすかに氷の粒がついている。
「おととい?」
「坂ノ下で事故があるかもって。気になって」
「……ああ、あれ」
言葉を挟んで、真夜は短く笑った。
「朝からそんな話したら、余計寒くなるよ」
笑っているのに、どこかぎこちない。どこか遠くを見ている。
それがわたしには、眠れずに迎えた朝の子どもの目みたいに見えた。
昼間にはもう思い出せなくなる種類の、名づけようのない疲れ。
けれど、彼女の声はすぐ吹雪にさらわれ、雪の音に溶けていった。
校門の内側に入ると風は少し弱まった。足跡が埋まっていく速さは、昨日よりも早い。
昇降口はすでに濡れた靴音の群れでいっぱいになっていて、床の水が光を返していた。
「駅まで親に送ってもらった」
「バス、遅れてたっぽいね」
「うちの親、今日も運転だって。やばい雪なのに」
そんな声が並んでいた。
手袋を外した時、掌がしんと冷たい。わたしはそれを制服のポケットの中でにぎった。
真夜はいつもと同じようにマフラーを外して、「早く中入ろ」と背中で促した。
教室に入る。暖房の匂いと湯気のような人の体温とが混ざっている。
黒板前では先生が朝の会を終えたところで、眉を寄せたまま戻っていく。
低い声で「気をつけて下校すること」とだけ言い置いて、出ていった。
机のあいだに、湿った靴の音だけが残る。
窓の外では、まだ雪が横に流れていた。
「道、見えないくらいだったよ」
「交差点で救急車通ってた」
ざわめきが波のように広がり、やがて一ヶ所へ集まる。
「今朝、事故あったって」
その言葉が耳にぶつかった瞬間、体が止まった。
どこかで見ている夢の続きのように、時間が伸びる。
筆箱の中で鉛筆がわずかに転がる音しか聞こえない。
誰かがスマホを見ながら、地名を読み上げた。
――坂ノ下交差点。
呼吸が浅くなる。
目の前の世界が、遠ざかる。
窓に映る自分の顔が、雪明かりで白くふくらんでいる。
止めたはずなのに。言ったのに。
どうして。
真夜の席を見た。背だけが見える。
その手が制服の裾をつかんでいる。ひとつ、指がふるえた。
彼女は何も言わない。けれど、唇の色が薄い。
一昨日の言葉を思い出しているようにも見えたが、それを確かめる勇気がなかった。
先生が廊下から呼ばれる声がして、教室の空気が再び止まる。
「佐野さん、ちょっと来て」
真夜が顔を上げた。
席を立つ前の一刹那だけ、こちらを見た。
その瞳にはまぎれもなく、痛みのような光があった。
椅子の脚が床を擦る音がして、扉が閉まる。
薄い日ざしが斜めに差し、窓の外ではまた風が鳴った。
白の向こうで、すべてがゆっくり遠のいていく。
声も、足音も、雪の音に飲み込まれる。
チョークの粉が漂い、誰も何も言わない。
胸の奥に冷たい重みが沈んでいく。
ただ、真夜のいない空席だけが色を失っている。
しばらくして、先生だけが何事もなかったようにドアを開け、授業を再開した。
机の並びも、黒板の数式も、昨日と同じ。けれど全部が少し遠い。
ノートを開いても、線がまっすぐ引けない。鉛筆の先が紙から滑る。
ページの角が湿って、指がうまく動かない。
窓の外では吹雪が強くなっていた。
風が壁を叩くたびに、教室の蛍光灯がわずかに震える。
先生の声が遠くで流れている。蛍光灯のうなりだけが、一定で続く。
「……今日はできるだけ早めに下校するように」
その一言を境に、教室のあちこちで小さな声が再び動き出した。
机の隙間に落ちる囁き。
「……車が……」
「滑ってたらしい……」
「……“バスも”って……」
途切れ途切れの単語が、風のように通り過ぎていく。
音の半分しか届かない。
でも、そのたびに心臓が強く跳ねた。
視界の端で、真夜の席が空白のまま光っている。
ペン先がそこで止まり、眼の奥がじんわり熱を帯びた。
わたしが言ったのに。伝えたのに。
何かしなきゃいけなかったのに。
机の下で拳を握る。
静かに、震えが指に移る。
昼のチャイムが鳴る。
休み時間になっても誰も声を張らない。
外の音だけが窓を打ち続けていた。
廊下を走る足音、誰かの笑い声。
何も変わってないようで、少しだけ重たい。
胸の中の何かが軋んでいる。
放課後、昇降口へ向かうと、そこにも人の輪ができていた。
スマホの光が雪の反射と混じって、顔が少し白く見える。
単語のかけらだけが風に乗って届く。
不意に自分の名前が混じった気がして、動けなくなる。
誰が言ったのか分からない。
ただ、周りの空気が一瞬静まり、すぐ元に戻った。
靴を履き替える。濡れた床に、水の跡が並ぶ。
うつむいたまま階段を降りた。
吐く息が白くて、すぐに風に散る。
外はすっかり夕雪に変わっていた。
雪の層が街を覆って、あらゆる音を静かに閉じ込めている。
坂道をくだる途中、ポケットの中で懐中時計が微かに動いた。
金属の重みが、布越しに脈を打つ。
思わず指先を動かすが、触れてはいけないと分かっていた。
だって、まだ決まったわけじゃない。
わたしの言葉が届いていれば、真夜のお母さんとお父さんは助かっているかもしれない。
真夜も、家に帰って笑っているかもしれない。
その希望がほんのわずかに残っていて、それだけが呼吸をつないでいた。
街の音が遠い。
信号機の灯りが雪を照らして、空へ滲んでいく。
わたしはマフラーを握り、息を整えた。
言葉にならないものが胸の底に沈んでいく。
翌朝も、空は異様に白かった。
風は止み、雪だけが静かに降りている。昨夜のチャットは未読のままだった。
“真夜”という文字の横にいつまでも灰色の印がついていて、更新するたびに胸の中が擦れた。スクロールの指が途中でひっかかり、画面が一瞬もどる。
まだ、命は助かっているかもしれない。
そう思うたび、喉が乾いた。呼吸をすると胸の中で何かが軋む。
制服のボタンを留めながら、声のない祈りを落とす。
――今日、どうか無事でいて。
玄関を出ると、世界が静まり返っていた。
毎朝並んで歩いていた真夜の姿はどこにもない。
足音がひとつきりしか響かないことが、こんなにも怖いとは思わなかった。
曲がり角で、彼女がいつもマフラーの端を叩く音を幻のように探してしまう。もちろん、そこにはない。
吹雪のあとに残された街路樹の枝が重たげに垂れ下がり、道の全てが灰色の層に埋まっていた。登校する人の数も減っている。
昇降口にたどり着いたころ、足先の感覚がもうほとんどなかった。
濡れた靴の跡をたどる。空気の密度がいつもより重い。
人の声はあるのに、その中身だけが耳に届かない感じがした。
教室のドアを開けた瞬間、視線がいくつも跳ねた。
朝の会話が一度止まり、すぐに再開されたけれど、空気の流れが明らかに殻を含んでいる。
「……佐野さんの、ご両親が」
前の席の子が、机を寄せ合う輪のなかで消えた声を出した。
「昨夜、亡くなったって……」
チョークを握る手が止まる音。笑いもため息も混じらない沈黙。
耳の奥で自分の呼吸音だけが膨らんでいく。
その言葉が現実のものと思えなくて、心が遅れて倒れていくようだった。
体が少し揺れた。椅子の背に手をかける。
頭が真っ白になるという表現があるけれど、それは本当だった。
熱も涙もどこかへ流れ出して、皮膚だけが残る。
目の前の風景が一瞬静止して、再び動く。
――真夜の両親がいない。
その一文が、硝子越しに聞こえた雪の音と重なって、現実の形を取った。
しばらくして先生が入ってくる。
「昨日の件で、地域から注意が出ています。通学路では周囲をよく確認して……」
声はいつもと同じ低さなのに、遠くから響いているようだった。
通達を終えて出ていく背中のあと、教室の中で小さな囁きが生まれる。
「……坂ノ下、って言ってたよね」
「真夜ちゃんの件でしょ」
「昨日、夜風さん……」
視線はばらばらなのに、確かにわたしの方向へ収束していく。
手のひらの内側が湿って、鉛筆がうまく持てない。
なぜ見られているのか分からない。
わたし、たったひとつのことを言っただけ。
“気をつけて”って伝えただけ。
それだけなのに。
「夜風さん、昨日から変なこと言ってたよね」
そのとき、誰かが言った。
音が、空気から剥がれ落ちた。
世界全体のスイッチが、ぱちん、と切り替わったみたいだった。
薄い膜が破れて、境界線がなくなったとき。ノートの罫線が一瞬で遠のく。
誰もまっすぐ見てはいないのに、視線の重さが肌を焼くように集まってくる。
机の上で心臓が鳴っているのが分かった。
「なんで知ってたの? 交差点で事故があるって」
前の列の生徒が、ためらいがちに振り向く。ノートの端を親指で整えながら、
声は穏やかだった。穏やかだからこそ怖かった。
「……偶然、聞いたから」
わたしが口を開いた瞬間、自分の声が震えているのが分かった。
「場所だけじゃないよね」
「そうそう。時間とかも、すごく詳しく言ってたって」
どこから出たの、その“時間”。思考が抜け、皮膚の感覚だけが残る。
笑いを含まない、淡々とした確認。
「ちが、わたし……」
喉が固まる。なにか言い足したいのに、言葉がすぐに霧になる。
教室の空気は冷たいのに、背中だけが熱い。
窓の外に目を向けても、雪の光が強すぎて焦点が合わない。
その時間はほんの数秒だったかもしれない。
でも、わたしにはそれが永遠に続くみたいに感じられた。
誰かが息を呑み、誰かがノートにペンを落とし、それでも何も壊れなかった。
ただ、世界だけが静かにひっくり返った。
昼休みになって、今度は誰も声をかけてこなくなった。
真夜の席は空いたまま。空白だけが重い。
鉛筆を持つ指が震えているのに、机の影は揺れない。
涙が出るより先に、心が擦り切れていく。
目の奥に痛みだけが残って、世界がぼやける。
それでも席を立てなかった。動くたび、誰かの視線が首筋を刺す気がしたから。
世界が、自分の外で閉じていく。
わたしは動けないまま、マフラーの端を指で握りしめ、か細く息を吐いた。
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