小雪の降る夜、わたしは嘘をついた
日比野くろ
プロローグ 本当に、大事なときだけ
夜の病室には、点滴の雫が落ちる小さな音だけがあった。
暖房の風がときどき天井を撫で、白いカーテンを震わせる。
窓の外は雪。粉のように降り続く白が、薄い蛍光灯の明かりよりも冷たい。
母は痩せて、頬が青白く沈んでいた。
それでも、わたしを見つめる目だけはやわらかい。
唇を開くのが苦しそうで、呼吸の合間にようやくひとことがこぼれる。
「……小雪」
声が震えた。
わたしはマフラーに口を埋めて頷いた。もう声が出なかった。
呼吸音が、細い糸みたいに途切れそうで怖い。
涙を止めたくても、とめられない。
母は枕元から手を伸ばした。骨の浮いた指。
その掌に、小さな銀の時計が乗っていた。
丸い蓋のある古びた懐中時計。傷のついた鎖が布団の上で揺れている。
わたしの手をとると、無理やり指を開かせて、その時計を握らせた。
ひやりとした金属が、皮膚を通りぬけて骨に沈む。
強く握りすぎて、手は震えてしまう。
「これを……持っていなさい」
「……やだ。そんなの、いらない……。お母さん、置いてかないで」
言葉の途中で喉がつまる。嗚咽に押されて、言いたいことが崩れていく。
母の額に小さな汗が滲み、それでも笑みを作ろうとしているのが痛々しかった。
「小雪。……これはね、ただの時計じゃない」
必死に吐き出す声だった。
わたしは何も分からない。ただ涙で視界が曇る。時計なんて、どうでもいい。ただお母さんを失いたくない。
「……時間を、戻せる。眠って……目を覚ました瞬間に、戻れる」
手に重ねるように、お母さんは時計の蓋を撫でる。弱々しい指がわたしの震えをなぞる。
「でも……戻したからって、全部うまくいくわけじゃない。……失敗することだってある。私は……そうだったから」
息が途切れ、わたしは「やめて」と泣きながら首を振る。
「いらない……時計なんて。そんなのより、お母さんじゃなきゃいや」
掛け布団に縋りつき、声がつい大きくなる。言葉の形にならない叫びを吐くしかなかった。
でも、お母さんはわたしを制するように、息を絞った。
「小雪……聞いて。これだけは……」
乾いた唇が少し割れても、目の奥だけは強かった。母がこんなに必死に見つめてくるのを、初めて見た。
「誰にも……見せないで。本当に、大事なとき……だけ」
「……わかんない。そんなのわかんないよっ」
「後悔、しないように。……ただ、それだけ。小雪……」
それが限界みたいに、母は目を閉じる。
浅い呼吸の間隔が広がる。
わたしは時計を胸に抱きしめて泣いた。
冷たさが皮膚に食い込んで、なおさら現実みたいに重かった。
「いやだ……やだよ……」
何度繰り返しても、声は母に届くのかどうかも分からなかった。
夜の病室には、点滴の音と、わたしの泣き声だけが残った。
窓の外の雪はただ静かに降り続いていた。
泣き疲れて目を閉じていたのか、時間の感覚が曖昧になっていた。
詰め込んだ嗚咽がようやく途切れて、わたしはお母さんの浅い息の間隔を探そうと耳を澄ませた。でも、返答はなかった。
胸の奥に空洞があいた気がして、ふらつく足で病室を出た。
扉を閉めた瞬間、外の廊下は不意に冷たい。病室に溜まっていた湿気も、母の匂いも切り離される。人工の灯りが直線上に並び、床を白く照らしていた。
角の自販機の光はひときわ強く、赤と青が雪の夜みたいに滲んでいる。硬貨を落とす音がこだまして、知らない誰かが缶を取り出す気配がする。その微かな生活音すら、やけに遠かった。
窓に近づくと、すぐそこに冬がいた。
外は闇と雪。群青の空気を、小さな白点が絶え間なく横切る。握っている時計はまだ冷たく、手の内の熱を奪っていく。
わたしは両手でそれを包んだ。
蓋越しにも、針が小さく刻んでいる音がする。普通の時計と何も変わらない。けれどさっき母が告げた言葉が胸にこびりついて離れない。
——眠って、目を覚ました瞬間に戻れる。
——戻したからって、全部うまくいくわけじゃない。失敗することだってある。
——誰にも見せないで。本当に大事なときだけ。
頭が追いつかないのに、涙だけはまたあふれてきた。
なんでそんなことを言うの。そんなのなくてもいい。わたしはただ、お母さんがいてくれたらよかったのに。
掌に残る時計の重みが、どうしようもなく邪魔だった。いっそ投げてしまったら楽なのに、指先が勝手に強く握りしめて離さない。
廊下を流れる空調の風が、涙で濡れた頬を冷ました。
わたしは自販機に反射した自分の顔を見た。赤い目。ぐしゃぐしゃな髪。マフラーに口を埋めても隠しきれない泣き顔。
どれだけ見ても、そこに答えなんてなかった。
ただ幼い私の胸に、母の言葉の断片だけが残っていた。
——誰も巻き込むな。
——本当に、大事なときだけ。
意味は分からない。どんなときが大事で、巻き込むとはなんのことなのか、想像もできない。
でも、その響きだけが、雪よりも深く、冷たく、胸に沈んでいった。
わたしは時計をポケットにしまい、背中を丸めるように歩き出した。
病院の白い廊下の端から端まで、自販機の明かりが遠のくほど、母のいない気配が濃くなっていく。
窓の外、雪はやむ気配を見せなかった。
ただ落ちて、積もり、音を吸い続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます