第7話「歌と鈴、そして条件」

 黒い馬車が角を曲がって消えた後も、市場には拍が残っていた。太鼓の三拍、子どもの笑いの五拍、売り手と買い手のやり取りが七拍にほどける。

 俺は鈴を手の中で転がしながら、広場の真ん中に立っていた。エルネの「次は、あなたが歌う番」という言葉が、胸板の裏で乾いた響きを残している。


「歌うの?」

 レイナが横に来て、穏やかな口調で尋ねた。

「歌う。ただの歌じゃない。条件を意志に結びつける“歌”だ」

 ミュナが揺枝を抱え直し、琥珀の瞳をまっすぐ向けてくる。

「条件の……歌?」

「そう。誰かの言葉に流されそうになった時、“ここで一度立ち止まる”という条件を、自分で思い出すための歌。合図の言葉で、踏み締められる拍を作る」


 その場で短く作って口ずさむ。

「《いち・に・とまる、さん・し・みわたす、

 ご・ろく・きめる、ななではこぶ》」

 子どものわらべ歌のような調子。市場の太鼓に重ねられる素朴さを残しつつ、間(ま)に“止まり”と“見渡し”を置いた。

 ミュナがすぐに真似る。レイナも口の端で同じ拍を刻む。少し離れた屋台の親父が面白がって声を合わせ、通りの角で洗濯物を干していた女たちが笑いながら続いた。


「決める前に、止まる。……いいわね」

 レイナの声は満ちていた。「剣でも同じよ。踏み込みの前に置く一拍が、全部を変える」

 ミュナは祠の鈴を一つ借り、歌に合わせて鳴らす。薄い音が市場の拍に乗り、遠くの屋台へ届いていく。

 俺は胸の刻印に触れた。熱が穏やかに応え、世界の糸が歌詞の隙間に通る。


 そこへ、王女セレスティアが現れた。付き従う護衛を下がらせ、俺たちに近づく。

「聞かせてもらったわ。簡潔で、覚えやすい。――通達する。“決め歌(きめうた)”として王都全域に広げる。太鼓と鈴は領主館が貸し出し、各区の祠は歌の稽古場になる」

「迅速ですね、殿下」

「あなたが歌を置いたのなら、私は道を敷くだけ」

 彼女の直線は、今日も迷いがない。だが同時に、薄く笑った瞳には、俺の足元を確かめるような探りも宿っている。

「条件を――あなたの歌に一つ乗せたい」

「聞こう」

「“王国整律官の決断を妨げる干渉を禁ず”という王令を、歌の最後に重ねる。人の間で作用する言葉は、歌に載せた方が遠くへ届く」

 政治の拍だ。俺は短く考え、頷いた。

「ただし、同じ歌に『整律官は決断の前に必ず三度の呼吸を置く』も付ける」

 セレスティアの眉がわずかに上がり、すぐ愉快そうに緩む。

「自己拘束の条件。いいわ、それでこそ“選ばせる側”の歌」


 その時、広場の端で軽い騒ぎが起きた。少年が一人、行商人の背嚢からリンゴを盗って走りだす。行商人が怒鳴り、周囲の視線が刺のようになる。

 少年の足は速く、だが体幹は揺れている。エルネの歌が残した“滑り”が、まだどこかに張り付いているのだ。

 俺は鈴を鳴らさず、手の中で小さく転がす。形だけを走らせ、少年の耳へ“空白”を置く。

「――いち・に・とまる」

 歌が市場のそこかしこで唇にのぼり、少年の膝がわずかに落ちた。

 レイナがその隙に前へ回り込み、剣の柄で軽く地面を叩く。

「さん・し・みわたす」

 少年の視線が、追ってきた怒りの視線と、手のリンゴと、祠の影を往復する。

「ご・ろく・きめる」

 少年はリンゴを胸に抱え、行商人の前に歩み戻った。

「……ごめん。腹が、減って」

 行商人は肩を落とし、ため息と一緒に眉間のしわをほどく。

「最初からそう言え。――仕事を手伝え。半日の賃に、リンゴ一個」

 「ななではこぶ」。

 少年は頷き、荷台の片側を持ち上げる。拍の力が市場をひとつ進めた。セレスティアが小さく笑み、俺の肩に触れる。

「歌は刃にも盾にもなる。それを、民が使えるのがいい」


 午後、祠の回廊で短い打ち合わせをした。

 レイナは騎士団の訓練計画に歌を組み込み、ミュナは祠ごとの拍の担当者――“音結び役(おとむすびやく)”――の指導に回ることになった。

 カイルは黙って俺の前に立つ。

「俺にも、その歌を。勇者隊の朝礼に置く」

「置け。ただし条件がある。――“称号を呼ばない”」

 カイルの肩がわずかに揺れた。

「勇者、を?」

「呼ばない。名は輪を作るが、同時に拍を固める。いまの君には“カイル”の拍が要る」

 沈黙が一拍。彼はやがて、静かに頷いた。

「分かった。……俺はカイルだ」


 夕刻、王城へ戻ると、宰相が廊で待っていた。痩せた指に帳面、灰色の瞳が忙しく揺れる。

「整律官殿。歌は見事だが、問題も出る。市場の“決め歌”に乗じ、詐欺師が“王命だ”と偽って売りつける輩が現れた」

 早い。歌は広がり、同時に濁りも生む。

「歌には“印”が要る。――鈴だ」

 俺は短い案を口にした。祠で鳴らす“基準鈴”の音程を定め、王都の歌や号令に使う鈴はすべてその音へ合わせる。偽物はすぐに耳が見破るはずだ。

 宰相は頷き、帳面に細かく書き込んだ。

「基準音を“王鈴(おうれい)”と称し、祠ごとに配す。商人組合と吟遊詩人組合にも触れまわそう」


 その夜。

 湯を浴び、衣を替え、窓辺で風に当たっていると、月明かりの端からルミナが現れた。

『よく歌った』

「まだ始まりだ。……エルネは、似合う歌があると言った」

『あるだろう。お前の喉は、選ばせる歌だけでなく、甘やかす歌も、奮い立たせる歌も似合う。だからこそ、選べ』

 ルミナはそっと近づき、額に指を当てた。

『“条件”を、忘れるときのために、お前自身のための歌を一つ作れ。誰のためでもない、リオンの歌を』

 俺は目を閉じ、ゆっくり息を吸う。

「――《なまえをよぶ・いち、

  いきをきく・に、

  てをひろげる・さん、

  やすむ・し》」

『素朴で良い。お前は“やすむ”を持ち歩け。刃の横には、必ず鞘が要る』


 翌朝は早かった。王女の召しにより、王城の小広間で商人組合・吟遊詩人組合との協議が行われる。

 大机の上には王鈴の試作が並び、調律師たちが耳を澄ませている。

「王鈴は祠に一つ。移動祠(キャラバン祠)には折りたたみの枠と一緒に二つ」

 俺が説明すると、吟遊詩人組合長の恰幅のいい男が手を上げた。

「歌に“間”があるのは良い。だが、我らは物語を運ぶ。決め歌に寄りかかりすぎると、物語が痩せる」

「寄りかからなくていい。基準に沿う“余白”を残す。物語は余白に置け。――“止まり、見渡し、決めて、運ぶ”の外側に、好きな彩りを乗せればいい」

 男は笑い、王鈴を一つ鳴らした。

「合点がいった。間があれば、詐欺師の芝居は浅くなる」


 会議の最後、セレスティアが立ち上がる。

「王都は歌う。拍で歩く。――だが忘れるな。歌は刃にも盾にもなる。今日これより“歌の罪”を制定する。王鈴の印を偽り、人の選択を奪う歌を禁ず。違反は厳罰」

 彼女の声は静かだが鋼を含み、広間の空気が引き締まる。


 会議がはけたあと、廊下の陰からジードがひょこりと現れた。

「よぉ、整律官。カイルに呼ぶなと言われたから、名前で呼ぶよ。――リオン」

「用件」

「新しい術式、面白そうだ。音の形を視る眼(まなこ)が、俺にも少し触れた。……弟子にしてくれ」

 意外な申し出だ。

「条件がある。たぶん眠れなくなる」

「今までもあまり寝ちゃいない」

「じゃあもう一つ。人の選択を軽んじない」

 ジードは肩をすくめ、笑った。

「約束しよう」


 昼下がり、祠の境内でミュナと巫女たちの稽古を見ていると、揺枝の先が急に“重く”垂れた。空気がわずかに濁り、遠くの鐘の音が反対向きに聞こえる。

 エルネの歌じゃない。もっと粗い、乱暴な撹乱。

 境内の門に、黒ずくめの数人が現れた。顔を布で覆い、手には短剣。祠の鈴を奪いに来たのだ。

「王鈴を、渡せ」

 低い声。巫女の一人が身を竦め、ミュナが一歩前へ出ようとする。

 俺は首を横に振り、前に出た。

「いち・に・とまる」

 俺の歌に、境内の誰もが肩を落とす。レイナが背後で剣を半ば抜き、足を“置く”。

 黒ずくめたちは動揺した。一人が突進を選ぶ――そこへ、鈴を鳴らさず、形だけの輪をその足首に置く。

 足が絡み、砂を噛む。

 レイナの柄打ちが顎を跳ね上げ、ミュナの短い祈りが伏せた男の手から短剣を遠ざける。

 あっという間だった。他の者たちは逃げ、残った一人が舌打ちと共に何かを投げる。煙玉。

 視界が白く濁る寸前、俺は王鈴を一度だけ鳴らした。高く、正しい音。

 煙が“裂ける”。――基準に合わない揺れが、王鈴の波でほどける。

 逃げる足音。境内に静けさが戻る。ミュナが胸を押さえ、ほうっと息を吐く。

「……拍があれば、怖くない」

「怖くていい。怖いのに立つ。それが拍だ」


 夕暮れ、セレスティアに報告すると、彼女は深く頷いた。

「歌に抗うための野蛮な力。だが、歌は野蛮にも勝てる。――リオン、条件をもう一つ」

「聞こう」

「“王鈴は、王家ではなく民のもの”。これを明文化する。所有は祠と街区に帰属させる」

「権威でなく、共同体の拍に」

「ええ。神々の理に似せる」


 日が落ち、城壁の上を歩く。冷たい風が頬を撫で、遠くに市場の太鼓が小さく聞こえる。

 隣にレイナ、少し後ろにミュナ。歩幅が自然に合う。

「あなたの歌は、優しい」

 レイナが言う。

「優しさは矛(ほこ)になりにくい。でも、盾にはなる」

「じゃあ、矛は?」

「条件」

 俺は笑い、歌の最後の“ななではこぶ”を小さく口の中で転がした。

 ミュナが頷く。

「運ぶのは、拍。……それと、願い」


 門楼の影が動き、カイルが昇ってきた。

「明朝、勇者隊の朝礼に“決め歌”を置く。……リオン」

「うん」

「呼ばずに済んだ」

「呼ばずに進め」

 短いやり取りに、風が笑う。


 その夜、寝台に横たわると、胸の刻印がひとつ、深く脈打った。

 歌は輪になる。輪は人を呼ぶ。呼ばれた人は、また別の輪を持ってくる。

 俺はまぶたの裏で、いくつもの輪が重なり、やがて大きな拍になって王都を包む図を思い描いた。

 そこへ、遠い、別の拍が微かに触れる。

 ――地平のむこう。第三天の気配。鋼のような、清冽な“律”の神。

 ルミナの声が薄く、夢の入り口で囁いた。

『次は“秤(はかり)”が来る。歌と鈴に、秤を添えよ。条件を測る者だ』


 俺は、眠りの底で頷いた。

 歌う用意はできている。条件は用意した。――次は、測ろう。


――――

次回:第8話「第三天の来訪――秤の神と、試しの盤」

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