第9話 明日への道
私室として与えてもらった部屋の窓から見えるバーデルン街は、まるで今日の出来事がウソであったかのように夜の静寂に包まれ、穏やかな眠りについている。
ここへ来たばかりのころは、この景色を見るたびにここが“異世界”であるという不安の方が大きかった。でも、今では海から真っ直ぐと街中へと伸びる月明りがまるで明日へとつながる道のように見える。それは咲玖が
もし、あのまま見つけてもらえず男たちの船に乗せられていたら、もうこの景色を見ることもできなかっただろう。
咲玖を小屋へ連れてきた男たちは、咲玖を縛り上げた後すぐに小屋を出て行き、もともと薄暗かった部屋はあっという間に暗闇に包まれた。
黒一色の視界と冷たい床の感触。自由を奪われた手足と塞がれた口。
その追い込まれた状況は、あの日この世界へ来る前に男たちに追われ、川に身を投げた時のことを嫌でも思い出させた。
冷たい水に意識を飲み込まれて行った時と同じように、今度は暗闇が意識を飲み込んでいった。
そして、小屋で目を覚ました時に感じたのはあの日と同じように優しく包み込む温もりだった。その温かさと咲玖を案じて震える重低音に心から安堵した。
――俺はなんて幸運なんだろう。
窓の外の景色を見ながら、知らぬ間に瞳に溜まった涙が頬を伝う。
それは自分の愚かしさへの後悔と、胸からあふれ出すラインハルトへの想いからだった。
ラインハルトは咲玖を恐怖からも、不安からも救ってくれた。
ずっと欲しかった温かい場所と、明日への希望を与えてくれた。
あふれ続ける想いがこぼれ落ちないようにグッと服の胸元を握ると、手のひらに少し痛みが走った。
小屋に投げ飛ばされたときにできた擦り傷には今はきれいに包帯が巻かれている。あの時、この血が滲む手のひらをラインハルトは食い入るように見ていた。
ラインハルトの側にいるためには、咲玖がケーキであることを明かすことは避けて通れない。
今、ラインハルトが咲玖に“好意”を持ってくれていることは間違いない。それは咲玖が『世界樹の客人』であるからなのだと思っていたが、それだけではないと自惚れたくなるほど、ラインハルトからは咲玖への“特別な想い”を感じる。
フォークとしての本能からケーキである咲玖に惹かれている可能性もあるが、結局は咲玖とラインハルトが、
それならば、と夢に見てしまう。望んでしまう。
ラインハルトにケーキとして咲玖を丸ごと愛してほしいと。
そうすればきっとケーキとして生まれたことも不幸ではなかったと思えるから。
それでもし、命を失うような結果になったとしてもいい、とまではさすがにまだ思えないが、ラインハルトならきっと大丈夫だと信じたい。と言うか、大丈夫だと根拠のない自信がある。
――まだ一カ月しか一緒にいないのに、なんでだろうな。
自分の能天気さに苦笑しながら、その自信を確信に変えるため、咲玖は深呼吸をして、部屋の中にあるドアの前に立った。
初めてこの部屋に来た日、ラインハルトの私室に続くこのドアの鍵を渡された。その時、ラインハルト側からは開かないと言われたが、正直、初めのうちはどうしてもこのドアが恐ろしくて、部屋にいても気になって仕方がなかった。
でも、ラインハルトの温かさに触れるうちに、このドアは初めとは違う意味で気になって仕方がない存在になった。
嬉しいことや楽しいことがあった日は、このドアを開いてラインハルトともっと話がしたいと思った。
心細さに凍えそうになった夜は、このドアを開いてラインハルトの温もりに触れたくなった。
その度に何度も『ダメだ』と自分に言い聞かせてきた。
ずっと変わるのが怖かった。そんな勇気も、きっかけもなかった。
でも、ラインハルトとの関係も、咲玖の未来も、ほんの少しでいい。少しずつでいいから、変えていきたい。
――もう逃げてばかりいるのはイヤだ。
覚悟を吸い込むように咲玖はもう一度大きく深呼吸をし、包帯の巻かれていないほうの手でドアを叩いた。
口から心臓が飛び出そうというのはこういう状態なのかと思いながら、ドアの向こう側からの反応を待つが、少し待っても返事がない。
もう一度、二回ドアを叩いてみる。それでもやっぱりドアの向こうから返答はない。
寝てしまっただろうか、と残念なような少しほっとしたような気持で「また明日にしよう」と踵を返そうとしたとき、ドアのすぐそばからいつもの優しい重低音が響いてきた。
「サク……?」
「あっ、えっと、まだ起きてた……?」
「あぁ、起きているよ。どうかしたのかい? 何か困ったことが、」
「ち、違うよ! えっと、その少し話がしたくて……。そっち、行ってもいい……?」
さっきから驚くほど早く動き続ける心臓を少しでも抑えようと、服の胸元をぎゅっと掴む。だが、またしてもラインハルトからの返事がない。
「あっ、つ、疲れてるよね。明日でも大丈夫だから……!」
「いや、大丈夫だ。少し驚いてしまって……。サクが平気なら、来てくれると嬉しいよ」
ドア越しに聞こえる優しい重低音に少しだけ心がほっとする。それでも早く動く心臓のせいで震える手で鍵をまわし、ドアを開いた。
その先にいたラインハルトは美しいエメラルドグリーンの瞳を細め、いつもと変わらぬ穏やかさで咲玖を迎え入れてくれた。
――あぁ、好きだなぁ。
その眼差しに自然と沸き上がった言葉に自分でも驚いて、顔に熱が集まっていく。それでも目が離せないのは、この美しいエメラルドグリーンの瞳をずっと見ていたいと思うからなのか、その奥にある優しさに触れたいと思うからなのか。じいっと瞳を見つめていると、ラインハルトは少し屈んで咲玖の顔を覗き込んだ。
「サク?」
「あっ、ごめんね、急に……」
「かまわないよ。正直このドアをサクが開けてくれることはないと思っていたから……。本当に嬉しいよ」
少しはにかんだように目を細めるラインハルトの頬に、咲玖は無意識のうちに両手を伸ばしていた。
「さっき部屋に一人になって……もし、今日あのまま見つけてもらえなかったら、もう二度と会えなかったんじゃないかって……そう思ったら本当に怖くなったんだ。でも、今こうして触れられてる……。助けてくれてありがとう。本当に、本当にありがとう、ライ」
声が震え、視界が滲んでいく。それでも、触れる指先から、見つめる瞳から、咲玖が持てる全てから、このあふれ出る想いがラインハルトに届いて欲しい願いながら精一杯笑って見せた。
見つめていたエメラルドグリーンの瞳が揺れた途端、それは視界から消え、その代わりに背に回された腕から感じる少しの圧迫感と温もりに咲玖は包まれた。
「……私も怖かった。きみがいなくなったらと考えただけで胸が張り裂けそうだった。本当に、無事でよかった」
「うん、ごめんね……ありがとう」
咲玖もラインハルトの背に手を回し、ギュッと力を入れた。
回された腕と重なった胸から感じる温もりに、さっきまで残っていた恐怖は消え、気持ちが穏やかになっていく。それだけではなく、鼓動に高い音が混ざるのは相手がラインハルトだからだろう。
しばらくその心地よい温かさに浸っていると、背に回された手が緩み、重なっていた体が離れた。
「すまない……」
最近ラインハルトのこの顔をよく見る。『しまった』というような、『やってしまった』というような、バツの悪そうな顔。
これまで咲玖の方からあからさまに距離を取ろうとしていたせいでこんな顔をさせてしまっているのだとわかってはいるのだが、今はその優しさがもどかしい。自分はこんなにも自分勝手で欲張りだったのかと、慣れない感情に言葉が詰まる。
――でも、このままじゃ何も変わらない……。
何も言わないまま、離れて行ったラインハルトの胸に飛び込み、もう一度背に手を回した。
驚いて声を上げたラインハルトは明らかに戸惑っている様子が伝わってくるが、正直咲玖自身もここからどうしたらよいのかわからない。でも、もう少しだけこうしていたい、そう思って背に回した手に少しだけ力を入れた。
すると、ラインハルトの大きな手が咲玖の髪に触れた。チラリと顔を上げると、少し困ったような、それでもどうしようもないほど優しいエメラルドグリーンの瞳と視線が重なった。
咲玖は背に回していた左手を前に持ってきてラインハルトの胸元の服をグイッと下に引きながら少しだけ背伸びをして頬に唇を付けた。
唇と一緒に少しだけ体を離すと、多分すごく驚いたのであろう、今まで見たことのないほど顔を固まらせているラインハルトが少しおかしくて、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ。俺からの感謝の気持ちと言うか、お礼になるかはわからないけど……伝わった……?」
「あぁ、これ以上にないご褒美だよ」
さっきの固まった表情から打って変わって、今までにないほど顔を緩ませるラインハルトを見て、また自然と両手がその頬に伸びていく。
――もう一回したらダメかな……。
許されるのならば唇に。そう思いながら、エメラルドグリーンの瞳をじいっと見つめるとラインハルトの大きな手が今度は咲玖の頬に触れた。その手に甘えるようにすり寄り、自分の手を上から重ねると、気が付いたときにはラインハルトの唇がすぐそばまで近づき、そのまま咲玖の唇に重ねられた。
咲玖はラインハルトの首に腕を回し、そのキスに応える。触れる唇の柔らかさが心地よくてねだるように角度を変え、何度も唇を重ねた。
きっとこれでラインハルトは気が付いたはずだ。
唇を離し、少し熱を持った息を吐いたラインハルトをまたじっと見つめた。
「ねぇ、ライ……俺は、どんな“味”がする?」
咲玖の言葉にラインハルトはグッと息を呑み、目を見開いた。
部屋のソファに並んで座り、何から話そうかと思案しながらチラリと横を見ると、ラインハルトも咲玖の言葉の意味を考えているのか、思案顔で下を向いている。
咲玖の話をしたら余計に悩ませてしまうかもしれない。でも、話さずには前に進むことはできない。咲玖は覚悟を決めてラインハルトの顔を覗き込んだ。
「少し、俺の話をしてもいいかな」
顔を上げて咲玖を見たラインハルトは、少しだけ眉間にしわを寄せながらこくりと頷いた。
「ありがとう。えっと……どこから話そうかな」
咲玖は、まず自分のいたところにはケーキとフォークという二次性があるということ、それらにはどのような特性があるのかについて話した。
「ケーキはフォークにとって喉から手が出るほど欲しいものなんだって。だから、俺のいたところではケーキは“金になるもの”だったんだ」
ラインハルトは咲玖の話をずっと信じられないと言ったような顔をしていたが、黙って聞いた。言葉が出ない、と言ったほうが正しいかもしれない。
「もう大体わかったと思うけど、俺はその“ケーキ”なんだ」
なるべく深刻にならないように、明るく話そうとするが、核心に迫るにつれ声が震える。でも、ぐっと腹に力を入れ、咲玖は話をつづけた。
「初めてここに来た時、俺、川に飛び込んで気が付いたらここにいたって言ったの、覚えてる? あれね、実は自分で川に飛び込んだんだ」
「……なぜ?」
「俺を買ってくれるって言うフォークがいたらしくってさ、そいつに売られちゃったんだよね、父親に」
咲玖は物心ついたときにはもう父親は一緒に暮らしていなかった。
父親は咲玖が生まれる前までは、親から引き継いだ工場を営み、まじめに働く人だったと母は言っていた。でも、咲玖が産まれる前にその工場の経営は傾き始め、“よくないところ”から金を借りるようになり、あっという間に首が回らなくなったらしい
そして、追い詰められた父親は自分の妻と生まれたばかりの息子が“金になる”ことに気が付いてしまった。そして、“よくないところ”に二人を売った。
もちろん母は生まれたばかりの咲玖を連れて逃げ、それ以来二人で隠れて生きていた。
でも、そんな生活がつらくないはずがない。母親は無理と心労が祟り、咲玖が十七歳の時に逝ってしまった。
それ以降、咲玖も母の教えに従って隠れて生きてきた。それなのに、あの夜、突然父親が咲玖のアパートに現れた。
顔は写真で見たことがあったが、記憶にもない父親に『助けてくれ』と縋られて、『はい』とうなずけるはずがない。
必死で逃げ、そして川へと飛び込んだ。
捕まるくらいなら、死んだほうがましだとその時は本当に思った。
それにもう、逃げてばかりの生活に嫌気がさしていた。
「もう疲れちゃったんだよね、隠れたり、逃げたりするのに。だから目が覚めた時、結局捕まったのかなと思ってあんな態度とっちゃって……今思うと本当に失礼だったよね、ごめん」
返事のないラインハルトの方をちらりと見ると、咲玖を見つめる美しいエメラルドグリーンの瞳にはうっすらと涙が溜まっていた。慌ててその涙を拭おうと手を伸ばすと、ラインハルトはその手を掴み、ぎゅっと握った。
「……すまない、何も言葉が出てこない……。そんな思いをしていたなんて……できることなら、もっと早くきみを迎えたかった」
「うん……今はここに来れて本当によかったって思ってる。でも……」
「サクが私から距離を取っていたのは、私がその“フォーク”というものだからなんだね?」
「……うん。味覚がないのも、ケーキの匂いを感じるのもフォークの特徴だから……」
ラインハルトはふうっと息を吐き、握った咲玖の手を離してソファにもたれて天井を仰いで目を閉じた。
「確信はしていなかったのだが……実はサクが“甘い”ことはここに来た日に気が付いていたんだ」
「えっ?! な、なんで」
そこで初めてここに来た時の出来事をラインハルトは話してくれた。
まさか、すでに知っていたとは思っていなかったが、咲玖は驚きよりも、初めて聞いた『人工呼吸』の話に顔に集まった熱が爆ぜた。
――まさか、さっきのキスが初めてじゃなかったなんて……!
「い、いやでも、アレはあくまで“人命救助”で……」
咲玖が考えていることがなぜか伝わったらしいラインハルトがしどろもどろと言い訳のようなことをしているのをみて、恥ずかしさも幾分かましになり、何やら温かい気持ちになる。
ラインハルトはいつも“立派な公爵様”で、感情の機微をあまり外に出さない。でも、咲玖といる時は、こうして隠し切れない感情を表に出すことがある。その様子がすごくかわいらしく見えると同時に、嬉しくもあった。
「ライは、俺のこと“おいしそう”だとか、“食べたい”って思ったことある?」
「……正直に言うとある。前にも言ったが、サクからはすごく甘い香りがするんだ。その香りを嗅ぐと、何やら込み上げてくるものがある。きっと本能的なものなんだろうね。でも今日はそのおかげで咲玖を見つけられた」
「えっ?」
「街できみを捜している時、金木犀の香りがしたんだ。きみの香りだとすぐに分かったよ。サクがケーキというもので、私がフォークというものだからきみを見つけられたんだと思うと、私が
優しく微笑むラインハルトを見て、思わずハッとした。
咲玖はこれまでケーキとして辛い思いをしたことの方が多かった。でも、ラインハルトはケーキとフォークという概念もないこの世界で、わけのわからぬまま突然“味覚”を失い、救いもなく生きてきたのだ。
自分のことで精一杯で、ラインハルトの心情など想像すらしたことなかった。これまでの自分の態度を思い返し、申し訳なさでぐっと胸が詰まる。
「俺、今まですごく感じ悪かったよね……」
「……正直、サクにはあまり好かれていないと思っていた。でも、そうではないと思っていいかな?」
「……好きじゃないのにキスなんてしない」
口に出してから恥ずかしくなり、赤くなる顔を隠すように下を向いたままもじもじとしていたら、ラインハルトは大きなため息を吐いて、顔を覆いながら今度は下を向いた。
怒らせてしまったかと焦りながら続く言葉を捜していると、ラインハルトは覆われていた手の端から視線だけを咲玖の方に向けた。少しだけ鋭さを含んだエメラルドグリーンの瞳にドクンと大きく心臓が跳ねる。
そのまま顔を上げたラインハルトは咲玖の頬へ手を伸ばした。
「……もう一度、キスをしてもいいかい?」
熱を持ったままの頬にそっと触れた指先の冷たさに、体がピクリと震える。「うん」と頷くと、ラインハルトは咲玖に顔を寄せ、唇を重ねた。
その隙間から入ってきたラインハルトの舌が味うように咲玖の口の中をゆっくりと
ラインハルトは味わうように深く口付けると、熱を持った息を漏らしながら咲玖から唇を離した。
「さっき、どんな“味”がするかと聞いたね」
「えっ、う、うん」
「香りと同じように、本当に甘い……そうだな、
フフっと優しくはにかむラインハルトを、まだキスの余韻でぼうっとする瞳で見つめていると、ラインハルトは咲玖の口の横から垂れていた唾液を指で拭い、ぺろりと舐めた。
「確かにこの“甘さ”は堪らないものがある。金を払ってまで手に入れたいと思ってしまう気持ちがわかるよ。でも、私がサクに感じるこの“想い”はそれだけじゃない」
そう言うとラインハルトは咲玖に顔を寄せ、こつんと額を合わせた。
「サク、私はきみにつらい思いも、怖い思いもさせたくない。きみが大切で、かわいくて仕方がないんだ。欲望も愛しさも、全てきみへの私の想いだ。好きだよ、サク」
優しい重低音に乗せられたラインハルトの“想い”が流れ込み、体中を優しく温めていく。
その想いに応えるように咲玖もラインハルトの背に手を伸ばし、少しの隙間もないように体を寄せた。
「俺もライが好きだよ」
『世界樹の客人は、お互いに必要とする人と巡り会うためにこちらの世界に招かれる』らしい。
ラインハルトは咲玖に温かい場所を与えてくれた。同じように、咲玖もラインハルトにかけがえのないものを与えられるような存在になりたい。
そう強く願いがら、伸ばした手にギュッと力を込めた。
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